2012年12月23日日曜日

「クリスマスの喜びを共に」

2012年12月23日クリスマス礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 2章1節〜7節
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罪のただ中に来られたキリスト 
 キリストはユダヤのベツレヘムに生まれたと伝えられております。イエスの母マリアも、父親とされるヨセフも、ベツレヘムに住んでいたわけではありません。彼らが生活の場を離れて、しかもマリアが身重であるにもかかわらず、どうしてもベツレヘムに旅をせざるを得なかったのは、皇帝アウグストゥスによって住民登録の勅令が出されたからです。奴隷も含めて全住民の数が調べられたのは、人頭税を課するためであったと言われます。それは、特に貧しい人々の上に、ずっしりと重い重荷を負わせることになったに違いありません。そもそも、生活の場を離れて旅をせざるを得ないこと自体、多くの人々の生活が脅かされることを意味しました。一人の権力を持つ人間によって、力ない者がその生活を脅かされます。平和な生活の場から追い出されます。弱い者はしばしばその命令に黙々と従わねばなりません。まことに理不尽なことです。しかしこの世界において決して珍しいことではありません。

 いや、これは権力者と民衆の間に限ったことではありません。抑圧されている人々は、痛みを負う者同志、分かち合い助け合い生きていくかと言えば、実際にはそうはなりません。そこでもまた場所の取り合いです。人は押しのけ合って生きていくのです。

 あの日の出来事を、聖書は次のように淡々と綴っています。「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」(ルカ2:6‐7)。淡々と語られているだけに、なおいっそう何とも言えぬやるせなさを感じます。

 何一つ必要なものが揃っていないその場所で、恐らくまともに産湯も使わせてもらうことなく、不潔な飼い葉桶の中に幼子は寝かされておりました。側には命がけの出産を終えて、極度の緊張と疲労のためにぐったりとしているマリアと、同じように緊張のために疲れ果てているヨセフがいたことでしょう。その日に羊飼いたちが来たとするならば、彼らが目にしたのは世にも悲惨な光景であったに違いありません。

 先ほど読まれた聖書箇所には「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」と書かれていました。はたして、そうなのでしょうか?本当は泊まる場所がなかったのではないでしょう。彼らのために場所を作ってやろうという人がいなかっただけではないですか。マリアが身重であるのは、誰の目にも明らかだったはずです。馬や牛じゃあるまいし、家畜小屋で簡単に赤ん坊を産み落とせるわけがありません。もし出産となれば、それが生死に関わることは、どんな鈍い人にだって分かったはずです。しかし、みんな自分のことで精一杯だったのです。彼らのことは気にはなったでしょう。でも自分の場所を確保することの方が大事だったのです。

 本当に暖かい場所を必要とする人たちが、宿屋から追い出され、家畜小屋のようなところに追いやられる。それもまた、形は違いこそすれ、この世の現実の姿です。誰の問題でしょうか。皇帝でしょうか。為政者たちでしょうか。社会的な構造が諸悪の根元なのでしょうか。いいえ、彼らだけの問題ではありません。私たちがこの場面に見る暗さは、私たち全ての人間に共通したエゴイズムと罪の暗さなのです。幼子が飼い葉桶に寝かされているのは、それは人間の罪のゆえなのです。

 いえ、あのクリスマスの物語の暗さは、聖書を読み進んでいきますと一層深くなってまいります。飼い葉桶に寝かされた幼子はどうなるのでしょう。この飼い葉桶の中にいる悲惨な幼子は、やがて十字架の上で悲惨な死を遂げることになるのです。生まれや育ちは貧しくて惨めでも、後には幸福になりました。大成して人々に尊敬される人になりました。そのような類の話なら、この世の中に数ある美談の一つともなるでしょう。しかし、この話は違います。産まれた時も惨めでした。そして、最後は人々に憎まれ、捨てられ、裏切られ、十字架にかけられて死にました。そこに寝かされているのは、そのような幼子なのです。あまりにも酷い話ではないですか。

 このように、クリスマスの物語には、暗い十字架の影が落ちています。「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」。いや、宿屋だけではありません。キリストには、地上のいかなる場所もありませんでした。最終的には、地からも上げられ、十字架にかけられて殺されるのです。地上には「十字架にかけろ。あの男を十字架にかけろ」という人々の叫びがこだましています。ゴルゴタの丘には十字架の上のキリストを罵り、あざける声が響き渡ります。父なる神を愛し、人々を愛された方は十字架の上にまで追いやられたのでした。

 神の御心を行おうとする人は、しばしば苦難へと、死へと追いやられる。それもまた、形は違いこそすれ、この世の現実の姿であろうと思います。確かにあの方は、最終的にはローマ皇帝の権力のもとに十字架にかけられました。しかし、あの方を十字架に追いやったのは、ただ単にローマ皇帝やユダヤ人の指導者たちだけではありません。私たちがあの十字架の場面に見る異様な暗さは、他ならぬ人間の罪の暗さなのです。人間の罪が、あの方を十字架に追いやったのです。

 しかし、私たちはそのような罪の暗さに、常に気づいているわけではありません。あのベツレヘムにおいて、自分の居場所を確保するのに精一杯であった人々は、そのように自分のために生きていることが、身重の女を馬小屋へ追いやっているなどと考えもしなかったに違いないのです。人が正当な権利を主張し、当然享受すべきものを享受しているのだと考えて生活していること自体が、実はすぐ身近にいる者に惨めさを強い、絶望と死の淵に追いやっている。そのようなことはいくらでも起こります。しかし、その当人は気づきません。

 十字架の場面においてもそうです。人々が「十字架につけろ」と叫んでいた時、彼らは自分が罪深い者だなどとは微塵も思っていなかったはずなのです。むしろ、彼らの多くは正義感に駆られて叫んでいたのです。人間の罪の最も深い闇は、その罪に気づかないところにこそあります。あるいは気づこうとしないところ、気づいても認めようとしないところにあるのです。そのような罪の深い闇のただ中で起きた出来事こそ、キリストの誕生でありました。それは決して美しく明るい出来事ではなかったのです。 

罪人を救うために来られたキリスト 
 しかし、それにもかかわらず、私たちはクリスマスを祝います。キリストの誕生を祝います。この日のために飾り付けをし、キャンドルを灯し、ホームページも新しくし、喜びをもって祝います。なぜでしょうか。

 今日の第二朗読にいうて、その答えが読み上げられました。「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」(1テモテ1:15)。クリスマスの出来事は、ただ単に、この罪の世のただ中にキリストがお生まれになったということではありません。罪人を救うためにこの世に来られた、という出来事なのです。もはや罪人は罪の中に希望なくうち捨てられている存在ではありません。この世界は、もはや罪のゆえに滅びるしかない世界ではありません。キリストが他ならぬ罪人を救うために来られたからです。そして、これを書いているパウロ自身が言うのです。「わたしは、その罪人の最たる者です」と。

 先ほど、「人間の罪の最も深い闇は、その罪に気づかないところにこそある」と申しました。それはパウロについても当てはまります。彼は、もともと自他共に認める「正しい人」でした。彼はもともとキリスト教会の迫害者だったのです。それは彼の正義感に基づく行動でした。教会の最初の殉教者であるステファノが石で打たれて殺された時、若きパウロは、恐らく何らかの責任ある立場として、その処刑に立ち会っていたのです。石で打たれ血塗れになって死んでいく一人の人をじっと見守りながら、その殺害を肯定している自分自身について、なんらのやましさも感じてはいなかったのです。

 その彼が、キリストを伝える伝道者となったのです。なぜでしょうか。彼の回心の次第は使徒言行録9章に詳しく記されております。それによりますと、サウロが迫害の手を伸ばすためにダマスコに向かう途上、突然、天からの光によって照らされ、地に打ち倒され、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」というキリストの声を聞いたということです。そこで実際に何が起こったのかは、よく分かりません。恐らくパウロ自身も自らの言葉をもってして十分には説明できなかったに違いありません。

 しかし、少なくとも二つのことだけは確かです。第一に、パウロがそこで自らの罪に気づいたということです。自分が正しいと思ってきたことが実は間違ったことであり、自分が知らないで行ってきたことがいかに恐るべき罪であるかということに気づかされ、打ちのめされたということであります。今まで他者を裁き、死にまで定めてきた者が、自ら裁かれるべき罪人として神の前にいることに気づいたということであります。

 そして、第二に、自らの罪を知ったパウロは、そこで彼に対して怒っているキリストに出会ったのではなく、彼を救おうとしているキリストに出会ったのだ、ということです。彼は、主の怒りに触れたのではなく、主の憐れみに触れたのです。その憐れみによって、彼は罪を赦され、救われ、そこから新しい命に生き始めたのです。

 そのようなパウロであるからこそ、確信をもってこう語るのです。「『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です」。キリストは来られました。罪の世のただ中に来られました。罪によって暗闇となった悲惨なこの世界のただ中に来られました。その御方は、飼い葉桶の中に寝かされた赤ん坊となり、十字架の上にかけられた死刑囚となられました。それは罪のない神の子が、この世の罪を自ら背負って苦しむ姿に他なりませんでした。神の子がそのような姿となられたのは、罪人である私たちが救われ、生かされるためでした。私たちが裁かれ、滅ぼされるのではなく、赦され、救われ、生かされるためでした。キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られたのです。

 それゆえ、この世はもはや神に見捨てられ、滅びへと定められた世界ではありません。いかなる人間も、どんなに神に背いてきた人であったとしても、神の憐れみの届かないところにいる人はいません。神の救いが届かないところにいる人はいません。キリストは罪人を救うために世に来られました。それゆえ、私たちはあのベツレヘムに起こった暗い出来事を祝うのです。飾り付けをし、キャンドルを灯し、喜びに溢れて祝うのです。光が来たなら、もはや闇は闇のままではないからです。

(祈り)
 憐れみ深い天の父、
 あなたはこの世界に救い主を与えてくださいました。あなたは暗闇の世界に救いの光を与えてくださいました。今、私たちはその光のもとに集められました。私たちが光の中を生きていくことができるように、と。主よ、特に今日は二人の方々が、信仰を言い表し、洗礼を受け、新しい命に生き始めます。私たち一同、こおにおいてあなたの救いの御業を目の当たりにし、喜びに満ち溢れてあなたを讃えるものとならせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

2012年12月16日日曜日

「メシアは本当に来られたのでしょうか」

2012年12月16日主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 11章2節〜15節
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荒れ野で叫ぶ声
 今日の福音書朗読にはヨハネという人が出て来ました。「洗礼者ヨハネ」と呼ばれる人物です。イエス・キリストに洗礼をさずけた人物です。彼がこの福音書に最初に登場するのは3章です。そこを先に見ておきましょう。

 3章1節から6節までをお読みします。「そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。『荒れ野で叫ぶ者の声がする。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」』ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」(3:1‐6)。

 彼の宣べ伝えた言葉がそこに書かれています。「悔い改めよ。天の国は近づいた。」この言葉、どこかで見たことはありませんでしょうか。渋谷や新宿の交差点で見かけたことはありませんか。黒地の大きな立て看板に黄色や白で「悔い改めよ」と書いてある。「世の終わりが来る」というようなことが書かれています。そして、そのような言葉が大きなスピーカーから聞こえてくるではありませんか。この箇所を読みますと、なんとなくあの人たちの姿を思い浮かべる人がいるかもしれません。

 ヨハネが「悔い改めよ。天の国が近づいた」と呼びかけていたのには理由があります。彼には確信があったのです。最終的な神の裁きが間もなく行われるということです。神が審判を下される終わりの日は差し迫っているということです。彼はこう言っていますでしょう。「ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。『蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。「我々の父はアブラハムだ」などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる』」(3:7‐10)。なんかますますあの人たちと重なってくるような気がしませんか。

 実際、ヨハネにとって、メシアの到来というのはそのような期待だったのです。ヨハネにとって来るべきメシアとは、第一に力ある王なのです。神の権威をもってこの世界に君臨し、この世の悪を正しく裁くことのできる王なのです。そのようなメシアの到来をヨハネがどのように思い描いていたかは、彼の描写から分かります。彼はこう言っているのです。「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」(3:11‐12)。

 彼が用いているのは脱穀のイメージです。「農夫が箕をもって麦を空中に放ると風がもみ殻を吹き分けます。そして麦は倉に入れられ、殻は焼き払われることになります。そのように、メシアを通して行われる最終的な神の裁きも行われると言うのです。この関連で「聖霊と火による洗礼」も語られております。明らかに「火」とは裁きの象徴です。では、聖霊はどうでしょう。実は、「霊」と「風」とは同じ単語なのです。ですから、ヨハネが意図していたのは「聖なる風」ということです。そうしますと、脱穀のイメージから言って、こちらももみ殻と麦を吹き分ける裁きの象徴であることが分かります。要するに、ヨハネはあくまでも、最後の裁きをなさる方としてのメシアを語っているのです。そして、そのヨハネが「この人こそ来るべきメシアだ」と信じていた人物こそ、あのナザレのイエスだったのです。

見聞きしていることを伝えよ
 やがて、ヨハネは捕らえられ獄中の人となりました。今日お読みした聖書箇所ではヨハネが牢の中にいることが書かれていましたでしょう。事の顛末は14章に記されております。簡単に言えば、領主ヘロデの罪を指摘し、その淫行を糾弾したのです。領主ヘロデにも悔い改めを求めたのです。しかし、彼は投獄され、ヘロデは何もなかったかのように平和に生活をしていた。それはヨハネにとっては決して想定外のことではなかったでしょう。それこそがまさに神に裁かれなくてはならないこの世の現実であることを知っていたからです。この世の悪の力によって投獄されたヨハネは、いよいよイエスへの期待を膨らませたに違いありません。自分が世の中から去った後、イエスはどのような行動を起こすのか。神の裁きの風はどのように吹くことになるのか。

 ところが、いつまで経っても、何一つ期待どおりのことは聞こえてこないのです。伝え聞くことは、イエスの周りにはいつでも悪霊に憑かれた人や病気で苦しむ人に取り囲まれているということ。罪人や徴税人たちを集めては一緒に食事をしているということ。弟子たちには「悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」と教えていること。さらには、「あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい」などと教えているということ。「天の父である神は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」というような話をしているということ。麦と殻を吹き分ける風はどうしたのでしょう。殻を焼き払うはずの火はどこにあるのでしょう。最終的な審判がまだだとしても、例えば旧約聖書に出て来るエリヤのように、天から火を下して見せるとか、神の怒りを垣間見させるような奇跡を起こして、人々を震え上がらせたというような話はまったく聞こえてこないのです。

 獄中にいるヨハネは揺らぎました。それが今日の福音書朗読で読まれた場面です。もう一度お読みします。「ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。『来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか』」(2‐3節)。

 その問いに対して、イエス様はこう答えられました。4節以下をご覧下さい。「イエスはお答えになった。『行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。』」(4‐6節)

 先に見たように、ヨハネは人々に悔い改めを呼びかけたのです。そして、多くの人がヨハネのもとに来たのです。先ほど見たように、そこには「エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」と書かれているのです。ヨハネはそのようにして、神から与えられた務めを行い、そして投獄され社会からは消えました。それは準備だったのです。イエス様はヨハネを「預言者以上の者」と呼びました。10節でこう言っていますでしょう。「『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』と書いてあるのは、この人のことだ」と。そうです、ヨハネは道を準備したのです。そして、その先に何が起こっているのか。何が起こっているのかをよく見なさい、よく聞きなさい。イエス様はそう言っておられるのです。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい」と。

 何が起こっているのか。目の見えない人、足の不自由な人、重い皮膚病を患っている人たち、貧しい人たち、イエス様のもとに来て、イエス様と出会った多くの人は、皆、神から見捨てられていると思っていた人たちです。しかし、その人たちが神の憐れみに触れたのです。神から見捨てられていないという事実に触れたのです。イエス様が到来して人々は神の愛に触れたのです。そのような出来事がはじまっている。そう既に始まっていることに目を向け、耳を傾けなさいとイエス様は言っておられるのです。

 そもそも悔い改めとは何でしょう。地獄に落ちないように良い人間になることでしょうか。神から罰せられないように、悪いことを改めて良い人間になることでしょうか。悔いて改めることでしょうか。いいえ、悔い改めとは方向を変えることなのです。方向を変えて神のもとに立ち帰ることなのです。悔い改めとは神への復帰です。神を離れた生活の方向転換をし、神に立ち帰ることなのです。イエス様のたとえ話で言うならば、父のもとを離れて放蕩していた息子がボロボロの姿のまま父のもとに帰ってきたように、そのように神のもとに帰ってくることなのです。

 そして、神のもとに帰るのは、罰を免れるためではないのです。災いを免れるためではないのです。神の怒りを鎮めるためでもないのです。そうではなくて、神の愛に出会うためなのです。神の愛の内を生きるためなのです。イエス・キリストはその意味において、来るべき御方だったのです。来るべき御方として来られたのです。神の愛の啓示として来られたのです。そして、その神の愛の啓示は最終的にキリストの十字架に至るのです。方向を変えて神に立ち帰った人がそこで出会うのは何か。十字架にかけられたキリストの姿なのです。その流された血による神の赦しなのです。

 確かにこの世界に悪はあります。暗闇が依然として覆っている世界であり、その意味においては夜明け前の暗闇ではあります。この世界を不義が支配している。正義はねじ曲げられています。正しいヨハネが投獄されるようなことが今日においても起こります。それゆえに苦しみもある。理不尽な悲しみもある。この世界にも私たちの人生にも解決していない問題は山ほどあるのでしょう。しかし、既にメシアは来られたのです。ですから、既に始まっていることがあるのです。確かにあります。ここにも見ることができます。神のもとに立ち帰って、私たちはここで共に礼拝を捧げている。ここには神の赦しがあり、私たちの内に働く神の回復の御業がある。私たちは神の憐れみに触れながら生活しているのです。そうです、信仰生活において、既に私たちは神の愛に出会い始めている。天の御国を味わい始めているのです。そこにしっかりと目を向けて生きていきましょう。

2012年12月9日日曜日

「神と結ばれた契約」 

2012年12月9日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 イザヤ書 59章12節〜21節
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光を望んだが闇に閉ざされ 
 今日朗読された聖書箇所は、「御前に、わたしたちの背きの罪は重く、わたしたち自身の罪が不利な証言をする。背きの罪はわたしたちと共にありわたしたちは自分の咎を知っている」(12節)という言葉から始まっていました。

 なぜこのような言葉が語られているのか。その背景となる言葉が9節以下に書かれていますので、そちらを先に見ておきましょう。「それゆえ、正義はわたしたちを遠く離れ恵みの業はわたしたちに追いつかない。わたしたちは光を望んだが、見よ、闇に閉ざされ輝きを望んだが、暗黒の中を歩いている。盲人のように壁を手探りし目をもたない人のように手探りする。真昼にも夕暮れ時のようにつまずき死人のように暗闇に包まれる。」(9‐10節)。

 これがこの人の置かれている状況です。いや、この人だけではありません。「わたしたちは」と言っているのですから。これは彼が目にしている当時の社会の描写なのです。誰もが光を望みながらも現実には闇に閉ざされている社会。先が見えないゆえに、どちらに進んだらよいのかわかない。いったいどうしたらよいのかわからない。まるで手探りをしながら歩いている人であるかのように、そのような生き方しかできない。それゆえにまた、繰り返し繰り返しつまずいて、倒れて、誰も彼も皆が傷だらけになっている。

 今から2500年も前の言葉です。しかし、今日こうして読んでいて、まったく古さを感じません。彼が今日の日本を描写するならば、恐らく同じ言葉をもって表現するのだろうと思います。光を望みながらも闇に閉ざされた社会。そのような暗闇の中にうなり声が響いています。こう書かれているのです。「わたしたちは皆、熊のようにうなり鳩のような声を立てる。正義を望んだが、それはなかった。救いを望んだが、わたしたちを遠く去った」。怒りと苛立ちに満ちたうなり声、呟きの声が響いています。「正義がない!救いがない!」と。それは昔も今も変わりません。

 そのようなうなり声はいつでも他者に向けられた苛立ちの声であり怒りの声なのでしょう。ある時は政府に向けられ、為政者たちに向けられ、ある時は教師たちに向けられ、ある時は家族に向けられ、親に向けられ、ある時は近所の人々に向けられ、ある時は教会にも向けられる。そうです、暗闇の中にあってつまずき倒れ、傷つく時に、怒りは他者に向けられるのです。「ここには正義がない!救いがない!」と。そして、怒りと苛立ちは神にさえも向けられる。「正義がない!救いがない!」と。そうです、いつでも人は暗闇の中にあって裁く側に身を置くのです。
 しかし、私たちは本当に裁く側に身を置くことができるのでしょうか。「正義を望んだが、それはなかった。救いを望んだが、わたしたちを遠く去った」ということについて、他の誰かにその責任を問うことができるのでしょうか。いや、裁く側に立つことはできない、ということが、既にこの章の初めに語られているのです。主はこう言われるのです。「主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が神とお前たちとの間を隔てお前たちの罪が神の御顔を隠させお前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ」(1‐2節)。

 そのように、本当に裁く側に立てるのは神なのです。そして、その神の目から見るならば、ここに書かれているように、第一の問題は人と人との間にあるのではないのです。そうではなくて神と人との間にあるのです。神と人との間が隔てられている。断絶している。関係の破れがそこにある。それこそがこの世界の根本問題であり人生における根本問題なのです。神との関係がどうなっているのかを問うことなくして、裁く側に身を置いて「正義がない。救いがない」と語っていることこそが問題なのです。

執り成す者はひとりもいない
 そのように暗闇として描写される社会そのものが神の御前にある。そこにいる私たち皆が神の御前にある。そのことに目を開かれた人の言葉を今日私たちは読んでいるのです。今日朗読された言葉は、そのような言葉なのです。もう一度お読みします。

 「御前に、わたしたちの背きの罪は重くわたしたち自身の罪が不利な証言をする。背きの罪はわたしたちと共にありわたしたちは自分の咎を知っている。主に対して偽り背きわたしたちの神から離れ去り虐げと裏切りを謀り偽りの言葉を心に抱き、また、つぶやく。こうして、正義は退き、恵みの業は遠くに立つ。まことは広場でよろめき正しいことは通ることもできない」(12‐14節)。

 繰り返されているのは「わたしたち」という言葉です。「わたしたち」とは重い言葉です。そこには、他ならぬこの「わたし」も含まれているわけですから。裁く側に身を置いて「正義がない。救いがない」と言っている時、そこには「わたし」は含まれていないのでしょう。しかし、神の御前に立つならば、自分も含めて「わたしたち」と語らざるを得ない。「御前に、わたしたちの背きの罪は重い」と言わざるを得ないのです。

 ここにいる私たちにとっていかに大事なことが語られていることでしょう。例えば私たちにおいては、それまで政府に対して怒っていた人が「御前にわたしたちの背きの罪は重いのです」と跪いて祈るようになる。教師に、家族に、教会に対して怒っていた人が、「御前にわたしたちの背きの罪は重いのです」と跪いて憐れみを乞うて祈るようになる。「背きの罪はわたしたちと共にあり、わたしたちは自分の咎を知っています」と、神の御前に認めて祈るようになる。それがどれほど大事なことかを改めて思わされるのです。

 さて、そのように裁く側に立つのではなく、自らの罪として「わたしたちの背きの罪は重いのです」と祈る者となる時に、鮮やかに見えてくることがあります。それは正しい人はいない、一人もいないということです。後にパウロという人が詩編を引用してこう言っているのです。「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない」(ローマ3:10‐12)。

 ご存じのようにパウロという人はかつて教会を迫害していた人だったのです。彼はかつて怒りに燃えていた人でした。断罪する側に立っていた人でした。しかし、その彼がすべての人が神の正しい裁きのもとにあることを知った時、そして、それこそ「御前に、わたしたちの背きの罪は重いのです」と言わざるを得なくなった時、まさにこう言わざるを得なくなったのです。「正しい者はいない。一人もいない」。

 この人も同じでした。彼は預言者です。預言者というのは神の言葉を人々に伝える人です。先に見たように、彼は人々に「主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が、神とお前たちとの間を隔て、お前たちの罪が神の御顔を隠させ、お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ」とも語ってきたのです。ではその隔てを彼は取り除くことができるのか。彼は人々と神との間に立って、神に執り成すことができるのか。いいえ、彼にもできないのです。彼自身もまた「御前に、わたしたちの背きの罪は重いのです」と言わざるを得ない者だからです。彼の認識も同じでした。正しい者はいない。一人もいない。それゆえに、彼はこう語るのです。「主は正義の行われていないことを見られた。それは主の御目に悪と映った。主は人ひとりいないのを見、執り成す人がいないのを驚かれた」(15b‐16a)。

主の救いは主の御腕により
 彼には分かっているのです。神の目には、執り成すことのできる人、隔てを除くことのできる人は正しい人はひとりもいないことを。それは何を意味するのでしょう。人間の側から救いの道を開くことはもはやできない、ということです。それを成し得る人がいないのですから。しかし、この預言者の言葉はそこで終わらないのです。その先があるのです。人間の側から救いの道を開くことができないゆえに、神が自ら行動を起こされるのです。人間の罪による神との関係の破れについて、人間の側からはどうすることもできなかったことが、神の側から始まるのです。16節の「主は人ひとりいないのを見執り成す人がいないのを驚かれた。」という言葉は次のように続くのです。「主の救いは主の御腕により主を支えるのは主の恵みの御業」(16節後半)。

 「恵みの御業」という言葉は、「正義」とも訳せる言葉です。しかし、これは人間の正義ではありません。神の正しさです。神は自ら救いの行動を起こされるのです。「主の御腕による」とはそういうことです。人間によらない。神様がなされるのです。そのように神様が行動を起こされるのは、人間の正しさのゆえではないのです。人間の正義に基づくのではないのです。正しい者はいない、一人もいないのです。それゆえに神の正しさに基づいて行動されるのです。「主を支えるのは主の恵みの御業(正義)」とはそういうことです。

 そのように主は贖う者として来られるのです。20節に書かれているとおりです。「贖う者」とは「救う者」と言い換えてもよいでしょう。そうです、神は救いの神として来られるのです。しかし、そこにははっきりとこう書かれています。「罪を悔いる者のもとに来ると主は言われる」。

 さて、アドベント(待降節)の期間に、どうしてこの聖書の箇所が読まれたのか、もうお気づきのことでしょう。私たちは、神自ら決定的な行動を起こされたことを祝おうとして準備しているからです。言うまでもなく、クリスマスのことです。神がこの世界に独り子を与えられた。神がこの世界にキリストをお与えくださった。神と人との間を執り成すことのできる正しい人がひとりもいないこの世界に、神が唯一、神と人との間を執り成すことのできる御方を置かれたのです。神と人との間を隔てる罪の隔てを取り除くことのできる御方を置かれたのです。そして、キリストは私たちの罪を自ら背負って十字架にかかり、私たちの罪の贖いをなし、私たちのために執り成してくださったのです。「父よ、彼らをお赦しください」と。

 21節にはこう書かれていました。「これは、わたしが彼らと結ぶ契約であると主は言われる。あなたの上にあるわたしの霊、あなたの上にあるわたしの霊、あなたの口においたわたしの言葉は、あなたの口からも、あなたの子孫の口からも、あなたの子孫の子孫の口からも、今も、そしてとこしえに、離れることはない、と主は言われる」(21節)。59章は「…お前たちの悪が神とお前たちとの間を隔て、お前たちの罪が神の御顔を隠させ、お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ」というところから始まったのです。それが本来私たちのいるべきところだったのです。しかし、今や、神の霊と言葉はとこしえに離れないと言われているのです。私たちはこの新しい契約を与えられているのです。その恵みを、わたしたちはもう一度深く心に留めなくてはなりません。

2012年12月2日日曜日

「夜明けは近づいている」 

2012年12月2日主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマの信徒への手紙 13章8節〜14節 
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救いは近づいている 
 今日の聖書箇所において、パウロは「夜は更け、日は近づいた」と語っています。12節の言葉です。

 「《夜は》更けた」。パウロはすっかり夜も更け、暗闇に覆われた世界を見ています。それが聖書によるこの世界の描写です。私たちは夜の世界を生きているのです。そのように語ったのは、何もパウロがはじめてではありません。旧約聖書のイザヤ書にも次のような言葉がでてきます。「見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる」(イザヤ60:2)。そのように、旧約の預言者も暗闇に覆われた世界を見ていたのです。

 それは今日の私たちにおいても、ある意味では感覚的に分かります。この世界を真実に見つめる人は、この世界を明るい日差しの燦々と降り注いでいる昼間の世界としては描写しないでしょう。あの預言者と共に「闇は地を覆っている」と言わざるを得ない。「闇」「暗黒」から連想される言葉はいくらでも挙げられます。「不安」「恐れ」「孤独」「憎悪」「怨念」「虚無感」「死の恐怖」「絶望」などなど。確かにその闇がこの世界を覆っているのを私たちは見ているのです。

 ちなみに、先に引用した言葉を語った預言者が実際に目にしていたのは、繁栄を極めたペルシャ帝国なのです。何も不景気な暗い情勢を見て言っているのではないのです。繁栄を覆い尽くしている暗闇を彼は見ていたのです。さらに言うならば、繁栄の中においていよいよ色濃く覆う闇とは何かと言えば、それは人間の罪の暗闇なのです。神に背き、光である神を失った暗黒なのです。先に挙げた「不安」「恐れ」「孤独」「憎悪」云々はすべて、その根から生じた葉であり実に過ぎないのです。聖書は、そのような夜の世界を生きている私たちについて語っているのです。

 また、「夜は《更けた》」という言葉には、時の流れが表現されています。「更けた」と訳されているのは、前に進むことを表現する言葉なのです。実際、私たちは時の流れがそのようなものであることを知っています。決して後戻りすることはない。今年もアドベントを迎えました。教会の暦では新しい年のはじまりです。それは一年がまた過ぎて行ったことを意味します。そして、過ぎて行った一年は絶対に戻ってこない。もうそこには戻れない。そうでしょう。夜の世界に決して後戻りすることのない時が刻まれていく。そこで営まれているのが私たちの人生なのです。

 時の流れは決して後戻りしないという事実は、時として暗闇を一層暗いものとするのでしょう。一年はあっという間に過ぎていく。そうして一つ歳をとります。肉体は朽ちていき、精神も衰えていきます。時の流れに伴って、人は多くのものを失いながら生きて行かねばなりません。そうして最後はこの世の命を失います。行き着くところは墓以外のどこでもない。それはこの世界についても同じです。この世界の有様を真面目に見るならば、その行き着くところはやはり破局と崩壊しか見えてこない。それはちょうど夜が更けていくといよいよ暗さが増していく様子と重なります。

 そのように「夜は更けた」と聖書は語ります。しかし、パウロはただ「夜は更けた」とだけ語りはしません。こう続くのです。「夜は更け、日は近づいた」と。逆戻りすることのない時の流れに、もう一つの事実を見ているのです。朝が刻一刻と近づいている、ということです。

 なぜパウロはこの世界の現実を夜明けに向かう夜として語り得たのでしょうか。それは、この夜の世界のただ中に、キリストの十字架が立てられたことを知っているからです。この世界に罪の贖いの十字架が立てられたのです。この世界は神によって十字架の立てられた世界です。罪の贖いのために御子の肉が裂かれ、血が流された世界です。神が御子によって愛を現された世界です。罪に満ち、悲惨に満ち、破局に向かっているとしか見えない世界でありながら、なおこれは神に愛されている世界なのです。だから彼は確信を持って言うのです。夜は永遠に続くのではない。朝が来る、と。十字架の闇が破られて、キリストの復活の朝が来たように、この夜の世界にも朝が必ず訪れるのです。

 これこそ喜びのおとずれです。福音です。私たちは代々の教会の宣教を通して、この福音を伝えられたのです。私たちは、その神の愛を告げ知らされ、まず私たち自身がその十字架の恵みにあずかったのです。罪の赦しの言葉を聞き、神の愛の言葉を宣言された人生を与えられているのです。私たちは朝に向かって生きる者とされたのです。朝に向いつつある夜ならば、絶望する必要はありません。そこには希望があります。ですからパウロは11節においてこう言っているのです。「今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです」(11節)。 

眠りから覚めるべき時が来ている 
 このことが分かるならば、今の時がどんな時であるかも分かります。聖書は言います。「更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています」(11節)。朝になり日が昇ってから目を覚ますのではないのです。目覚めて朝を待つのです。まだ暗いけれども、もう眠りから覚めるべき時だ、と言うのです。

 眠りから覚めるとは、既に朝が来たように生きるということに他なりません。ですから、パウロは次のように勧めます。12節以下をご覧ください。「夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません」(12‐14節)。

 「夜は更けた。ああ真っ暗だ」としか考えられないならば、「だから、闇の行いに生きようではないか」となるでしょう。希望のない人は希望のない人のようにしか生きられない。しかし、希望を与えられている人が、希望のない人のように生きていてはならないのです。朝が来ることを信じている人が、夜が永遠に続くかのように生きてはならないのです。眠りこけてしまっているならば、今こそ目を覚ますべき時なのです。

 それは、消極的に表現するならば、闇の行いを脱ぎ捨てることである、とパウロは言います。汚い服を脱ぎ捨てるように、闇の行いを脱ぎ捨てることです。その描写は具体的です。パウロは三組の言葉をもってこれを表しています。「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみ」。時は確実に流れていきます。私たちに与えられているのは朝に備える限られた大切な時間です。その時間を、闇の行いによって無駄にしてはならないのです。理性と引き替えにして享楽に身を委ねることに、この貴重な時を費やしてはならないのです。欲望を満たすことを追い求めながらその欲望に振り回され、他者を傷つけ自らを傷つけて生きることに、この貴重な時を費やしてはならないのです。果てしない争いとねたみのために、この大切な時を費やしてはならないのです。キリストの裂かれた肉と流された血潮は、私たちが闇の中にとどまってこの夜を過ごすために与えられたのではありません。朝を待つ者として生きるようにと招かれているのです。朝の日差しに、罪の悪臭漂うぼろぼろの惨めな服は相応しくありません。パウロは「そんなものは脱ぎ捨ててしまいなさい」と言うのです。

 そして、積極的には、「光の武具を身につける」(12節)ことです。そうです、身に着けるのは「武具」なのです。この夜の世界において、既に日が昇っているように光の中を生きるということは、それ自体闘いでもあります。私たちを闇へと引き戻そうとする力が強力に働くからです。再び闇の行いをまとわせようとする力が強力に働くのです。私たちは戦わなくてはなりません。悲しみと悩みに満ちた闇の中に引き戻されてはならないのです。そのためには武具を身につけなくてはなりません。

 光の武具を身につけるとはどういうことでしょうか。テサロニケの信徒への手紙(一)5章7節以下には次のように記されています。「眠る者は夜眠り、酒に酔う者は夜酔います。しかし、わたしたちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう」(1テサロニケ5・7‐8)。

 こうして見ますと、「光の武具を身につける」とは特別な神秘的な体験によって何かを得ることではなさそうです。「信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり」と言われているところで具体的にイメージされているのは、恐らくごく当たり前の信仰生活なのです。何ら特別なことではない。主を礼拝し、福音の言葉を聞き、キリストの裂かれた肉と血にあずかり、福音に基づいて主に従って生きる新しい生活です。

 ですから、そのような「光の武具を身につける」ということが、さらに「主イエス・キリストを身にまといなさい」と言い換えられているのです。「身にまとう」という言葉の意味するところは、「一体となる」ということです。ガラテヤの信徒への手紙にはこう書かれています。「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」(3:27)。そのように、「主イエス・キリストを身にまといなさい」という勧めの言葉は、洗礼において与えられるキリスト者としての生活、キリストとの交わりの生活のことなのです。そのような信仰生活をしっかりと身に着けることなくして、暗闇に引きずり込む力と戦うことはできないのです。

 「更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。」そのように、私たちは今日も「目覚めて待て」との主の呼びかけを聞いています。これは礼拝の度ごとに呼び掛けられている言葉であるとも言えるでしょう。眠りこけてしまっているならば、ここで目を覚ますべきです。朝が来ないかのように生きていたならば、もう一度朝の光の中に生き始めるのです。キリストを身にまとい、キリストとの交わりの生活を回復するのです。こうして私たちは、主の御言葉を聞きながら、一週間一週間を刻みつつ、後戻りできない時の間を夜明けに向かって共に生きていくのです。

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