2012年11月25日日曜日

「最後の審判の話」

2012年11月25日主日礼拝
日本キリスト教団頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 25章31節〜46節 
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愛の行いの勧め? 
 来週の日曜日からアドベント(待降節)に入ります。教会の一年はアドベントから始まりますので、この日曜日は一年最後の日曜日ということになります。ゆえに、この日は「終末主日」と呼ばれまして、特に「終わり」について考える日とされています。ということで、今日の福音書朗読では「最後の審判の話」が読まれました。

 イエス様がなさったのは、要するに最後には羊と山羊に分けられるという話です。そして、羊には「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい」と語られる。山羊には「呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ」と言われる。そこでどうしても考えざるを得なくなります。わたしは羊になるか、山羊になるか、と。ましてや、「飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた」という、具体的な愛の行いが裁きの基準であるようだと知りますと、たちまち自信が持てなくなります。ある意味では私たちにとってまことに恐ろしい話です。

 もちろん、「恐ろしい話」が必ずしも「悪い話」とは限りません。「恐怖」は時として強烈に善行を促すものとして働きます。「恐ろしい話」には、それなりの教育的な効果があるものです。「地獄」という絵本が子供のしつけに効果があるということでやたらに売れているそうですが、その是非はともかくとして、確かにもともと地獄絵は単に恐怖を与えることが目的ではなく、悪行を抑制し善行を促す教育的な意味があったわけです。

 そう考えますと、今日の箇所も小さき者への愛の行いを促すための物語として読むことができるでしょうし、実際にしばしばそのように読まれてまいりました。最後には王なるキリストの前に立つことになるのだ。私たちは最終的に裁き主であるキリストの前において羊と山羊に分けられることになる。そこで山羊の側になりたくなかったら、生きている間に、自分が為しえる間に、実際に行動をもって「最も小さい者」に愛を表さなくてはならない、というようにです。

 しかし、この「恐ろしい話」を読んで、最後の審判において山羊の側にならないために、地獄の火を逃れて神の国に入るために、あたかも保険をかけるかのように、善行や隣人愛の行為を一生懸命に積み立てるとするならば、それはそれで何か変だと思いませんか。確かに、悪いことをするよりは、善いことをする方が好ましいに違いないのですが、それでも動機と目的がただ「山羊の側にならないため」ということであるならば、何かがおかしい。それではまるで自分が救われるために他の人を踏み台にするようなものではありませんか。それはもしかしたら愛の名を借りた究極のエゴイズムと言えなくもない。イエス様がそんな話をしているとはどうも思えません。

 そもそも、そのような善行や隣人愛ですと、イエス様がなさった話とは全く違った結果になってしまうのです。ちょっと想像してみてください。私たちがイエス様の話を聞いてこう考えたとしましょう。「そうか、最も小さい者にしたことはイエス様に対してしたことになるんだな。今、この人にしていることも、イエス様にしていることになるんだ。これまで随分《イエス様に対して》善いことをしてきたはずだ。もう既に相当ポイントが貯まっているに違いない。このままいけば確実に羊の側に違いない。」そう思いながら、そのように人生を送って、やがて王なるキリストの前に立ったとしたらどうでしょう。ここに出て来る羊たちとはかなり違ったことを言うのではありませんか。

 この話に出て来る羊たちはこう言っているのです。「主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか」(37‐39節)。いいえ、あなたのためになど、何一つしておりません、と彼らは言っているのです。そう言って驚いているのです。

 ポイントが貯まっているはずだと思っている人は、そうは言いませんでしょう。「最も小さい者の一人にしたのは、あなたにしてあげたことになるんですよね!そうであるからこそ、わたしはあなたのためにかなり働いたし、あなたに対する愛の業に励んできたのです。」そう言うのではありませんか。そのように、山羊の側にならずに羊の側になるために愛の行いに励むとしますと、結果的にはここに出てくる羊たちと同じにはならない。似ても似つかぬ者となってしまうのです。やはり何かがおかしい。 

傍らに立ってくださるイエス様 
 そこで私たちはこのたとえ話のどこに身を置くべきなのかを改めて考えざるを得なくなります。たとえ話はどこに身を置くかで全然違った話として聞こえてくるのです。このようなたとえ話を読むと、どうしても「最も小さな者の一人」に対して何を為すべきか、というように、「何かをしてあげる側」に身を置いてこの話を読んでしまいやすいでしょう。しかし、それが唯一の立ち位置ではないのです。

 私たちは人生において常に「何かをしてあげる側」にあるとは限らないわけでしょう。「何かをしてもらう側」に立つことだってあるわけです。確かに私たちは「飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をする」側に立つこともあるでしょうが、もう一方で「お世話をされる」側に身を置かざるを得ない時もあるのではありませんか。食べさせてもらったり、癒してもらったり、お見舞いしてもらったり、助けてもらったり。自分では何一つ為しえない状況で、苦しんで悩んで、他の人から助けてもらうしかなくて、本当に自分の無力さや小ささを痛感せざるを得ない状況に置かれることだってあるのでしょう。

 確かに信仰者として他の人に対して何を行うかということは大きな課題です。しかし、それと同じくらい大きな課題は、まさに「最も小さい者」となった時、あるいはそのようにされた時、いったいそこで何を考えるのか、ということなのです。そのように「最も小さい者の一人」の場所に立ってこの話を聞くことは必要なことなのです 

 事実、イエス様は別の箇所で弟子たちのことを「小さい者」と呼んでいるのです。同じ福音書の10章において、イエス様はこのように言っておられるのです。「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」(10:42)。実際、初期の教会の構成していた人たちの多くは奴隷の身分の人たちであったり、この世的には極めて低い立場にあった人たちであり、人々から卑しめられてきた人たちであったのです。また伝道者たちも、まさに物乞いのような有り様で、行くところ行くところで人々のお世話になりながら伝道を続けていたのです。ですから、イエス様の弟子たちにせよ、後のキリスト者にせよ、ここで語られている「最も小さな者の一人」は、決して誰かどこかの他の人ではなかったのです。どうしてもこの「最も小さな者の一人」に身を置いて聞かざるを得なかったのです。

 そのように、私たちもまずはこの「最も小さな者の一人」のところに身を置いて、この福音の言葉を聞いたら良いのです。人生の様々な場面で、弱さを覚えたり、誰かに助けてもらったり、誰かに世話にならなくてはならない私たち。どんなに強がってみても、実際にはしばしば捕らわの身のように我が身一つ自由にできない私たち。そのような私たち自身をそのまま持ってきて、イエス様の言葉を聞くのです。するとそこでイエス様がこう言ってくださるのです。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と。

 どんなに小さな者であろうが、無力な者であろうが、イエス様は「これはわたしの兄弟だ」と言ってくださる。そのようにして私たちの傍らに立ってくださるのです。そして、私たちが助けを受けるならば、イエス様御自身が受けたかのように感じてくださる。私たちが、誰かの愛情に接して心温まる喜びを感じたならば、イエス様がその愛の行為を受けたかのように共に喜んでくださるのです。

 またもう一方で、私たちが不当な扱いを受けるなら、私たちが蔑ろにされたり、軽んじられたりするならば、イエス様御自身が蔑ろにされたり軽んじられたりしたかのように怒ってくださるのです。「永遠の火に入れ!」とは実に激しい言葉ではありませんか。しかし、それほどにイエス様は私たちのことを思ってくださる。そのように、私たちはイエス様の兄弟であり、イエス様は私たちと御自分とをいわば同一視してくださるのです。それがここでまず語られていることなのです。

 そのように、まずは私たち自身の傍らに立って、「これはわたしの兄弟だ。わたしの兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と言ってくださるイエス様を知ることです。私たちをどれほど大切に思っていてくださるかを思うことです。最後の審判においてまで、そう言ってくださるほどに、大切に思われているのです。

 そのように私たちの傍らに立ってくださるイエス様が見えてきますと、もう一つのことが見えてくるはずなのです。他の人の傍らに立っているイエス様です。イエス様が私たちを大切に思ってくださったように、主は他の人たち、私たちの周りの人たち、特に助けを必要としていたり愛されることを必要としている人たちについてもこう言われるのです。「これはわたしの兄弟なのだよ。わたしの兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのだよ」と。

 このたとえ話をしておられるイエス様が望んでおられることは、そこから始まっていくのです。地獄の火を免れるための保険でもない、神の国に入るために一生懸命に貯えたポイントでもない、いかなる形においても自分自身に栄光を帰さない、もしかしたら自分の記憶にさえも残らない愛の行いが、小さいながらもそこから始まるのです。そして、それはたとえ小さなことであっても、決して主の目に軽んじられることはないのです。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と主は言われるのですから。そのことを思いながら生きて行ってこそ、はじめて私たちもまた、ここに出て来る羊たちと同じようになれるのでしょう。やがて王の前で、私たちはその時に驚きの声を上げることになるのでしょう。「え?いつわたしたちはそんなことをしましたか?」と。それは何と喜ばしい驚きであることでしょう。

2012年11月18日日曜日

「差し出された神の手を握る」

2012年11月18日主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒言行録 3章11節〜26節
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体の癒し以上のこと 
 エルサレムの神殿に「ソロモンの回廊」と呼ばれる場所がありました。そこにいたペトロとヨハネのもとに大勢の民衆が集まってきた。そこでペトロは彼らにイエス・キリストを宣べ伝えた。今日読まれたのは、そのような話です。

 なぜ民衆が集まってきたのか。ひとりの人が奇跡的に癒されたからです。事の顛末は3章前半に書かれています。生まれながら足の不自由だった男が奇跡的に癒された。そのようなことがありますと、人々は驚いて集まってくるものです。確かに驚くべきことが起こりました。しかし、彼に起こったこと本質は単に肉体の癒し以上のことでした。彼は「躍り上がって立ち、歩き出した。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った」(3:8)と書かれているのです。

 癒されて嬉しかった。それはそうでしょう。しかし、体を癒されて喜んだ人が、必ずしも神を賛美する人になるとは限りません。神を礼拝するために神殿へと向かうとは限りません。彼は神を賛美したのです。神を礼拝するために神殿に入っていったのです。それは肉体の癒し以上のことなのです。人生の方向が変わったのです。彼は神に向いて、神と共に生きる人となったのです。

 考えてみれば、足が癒されることは必ずしも幸せな生活を約束するものではありません。今まで物乞いをして生きてきた人です。仕事はあるのでしょうか。足が癒されたら癒されたで、恐らくはその先に数多くの困難が待っているに違いない。体が癒された喜びは次に困難に出会った時に消えてしまうかもしれません。しかし、人生の方向が変わることは、神に向かって生き始めることは、永続的な意味を持つのです。さらに言うならば、それは死を越えて永遠の救いに関わる意味を持つことになるのです。

 ですから、この話はただ一人の男の足が癒されたという話で終わらないのです。その先にはペトロが語るべきことがある。人々が聞かなくてはならない言葉があるのです。ここにいる私たちもまた聞かなくてはならない言葉があるのです。それが今日の聖書箇所において語られていることなのです。

 外見的には、その癒しはペトロによって起こりました。しかし、ペトロは自分がただキリストの恵みの通路に過ぎないことをよく知っていました。ですから、集まって来た人々に言うのです。「イスラエルの人たち、なぜこのことに驚くのですか。また、わたしたちがまるで自分の力や信心によって、この人を歩かせたかのように、なぜ、わたしたちを見つめるのですか」(12節)。ペトロは自分に注目している人々の目を、キリストへと向けるのです。人間に目を向け、人間に求めている限り、本当の救いは来ないからです。重要なのは、キリストとの関係なのです。ですから、ペトロは、この癒された男についても次のように語ります。「あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです」(16節)。

 さて、ここで一方において「イエスの名が強くした」と言い、他方において「イエスによる信仰が…いやしたのです」と言っていることに注意してください。「イエスの名が強くした」というのは、「イエスが強くした。イエスがいやした」という意味です。事をなさるのはあくまでもイエス様御自身なのです。しかし、それだけでは完結しないのです。そこにはまた「イエスによる信仰が」いやしたのだ、という事実がある。イエス様がなさることを、人間は「信仰」によって受け取らなくてはならない、ということです。

 ペトロとこの男の間に起こったことは、ある意味で象徴的なことでした。ペトロは、彼に、「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と命じたのです。そして、命じただけでなくペトロはこの男に向かって手を伸ばしたのです。「右手を取って彼を立ち上がらせた」と書かれているのです。手を伸ばして右手を取った。しかし、この男の手は動くわけですからペトロの手を払いのけることもできるわけです。払いのけても不思議ではない状況であったとも言える。そもそも彼は施しを期待していたのですから。お金を期待していたのですから。その意味では期待はずれです。しかも、「立ち上がり、歩きなさい」とは何事ですか。足が悪くて立ち上がれないから座っていたのでしょう。

 しかし、彼はペトロの言葉を退けなかったのです。伸ばされた手を払いのけなかった。ペトロが彼の右手を取って立ち上がらせようとしたとき、彼はペトロの助けを受けて、イエスの名を信じて、神の御業を信仰によって受け取ったのです。その意味でペトロが彼の手を取って起こした姿は象徴的な姿であったと言えます。そして、彼に起こったことはまた全ての人にも起こり得ることなのです。先にも言いましたように、彼に起こったのは、体の癒し以上のことなのです。人生の方向転換なのです。神と共に生きる人、神との交わりに生きる人となることへの方向転換です。ですので、ペトロは13節以下の説教を語り始めたのです。 

神の手を握る 
 語り始めの言葉はこうでした。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神は、その僕イエスに栄光をお与えになりました。ところが、あなたがたはこのイエスを引き渡し、ピラトが釈放しようと決めていたのに、その面前でこの方を拒みました。聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦すように要求したのです。あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です」(13‐15節)。

 ここで繰り返されているのは「拒んだ」という言葉です。そして、最終的には「殺した」という言葉が出て来る。これは究極的な拒絶です。もはや自分に決して関わることがないように抹殺してしまうわけですから。そのようにあなたがたは拒んだのだ、とペトロは言います。誰を。「命の導き手である方」を。

 「命への導き手」、それは他の翻訳では「いのちの君」「命の創始者」などと訳されている豊かな内容を持つ言葉です。真の命をもたらしてくださる御方ということです。真の命とは何でしょう。わたしは生きているのか。あなたは生きているのか。確かに生きているから、礼拝堂に集まっているのでしょう。しかし、本当に「生きている」のか。いや、正確に言うならば「生きている」のではなく、「死につつある」というのが正しいのでしょう。皆間違いなく確実に死に向かっているのですから。さらに言うならば、聖書にはこんな言葉も出て来る。「わたしはあなたの行いを知っている。あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる」(黙示録3:1)。何かを行っているのだから「生きている」のでしょう。しかし、その行いを知っている神から見るならば、「あなたは死んでいる」と言うのです。 そのように、真に命があるということは、単に肉体的に生きているということではない。また、生き生きと生きているということですらないのです。

 では何なのか。命とは交わりなのです。命の源であり、命そのものである神との交わりなのです。イエス様は、神の愛を示し、神との豊かな交わりの中にある真の命、永遠の命を見せてくださった方でした。そして、神との愛の交わりにある命へと導くために、イエス様は来られたのです。いわばイエス・キリストは、神の伸ばされた手なのです。私たち人間を御自身との交わりへと招くために伸ばされた手なのです。生きているとは名ばかりで実は死んでいる者を、また生きているのではなくて実際には死につつある者を、起き上がらせるための手なのです。真の命によって起き上がらせるために伸ばされた神の手なのです。

 しかし、あなたがたはその手を払いのけてしまったのだ、とペトロは言っているのです。いやもう二度とこちらに向かって手を伸ばせないように、十字架の上に伸ばして釘を打ち付けてしまったのです。「あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいました」。それは究極の拒絶です。

 ならばもう終わりでしょう。もうその先はないでしょう。それが当然の帰結だと思うのです。しかし、神はそうなさらなかった。人間が終わりにしても、神は終わりになさらないのです。ペトロはこう続けるのです。「あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です」(15節)。

 神はキリストを十字架にかけた人々を見捨てられませんでした。それはすなわち、神はこの世界を見捨てなかったということです。罪深く頑なで傲慢で、神の恵みの御手さえ払いのけてしまうような私たち人間を神は見捨てなかったということです。神は、拒まれ殺されたイエス・キリストを復活させ、永遠に命の導き手なる方として、永遠の主として立ててくださったのです。神はなおも私たちを命へと招き、私たちに御手を伸ばしていてくださるのです。

 それゆえにペトロは彼らにこう語りかけます。「ところで、兄弟たち、あなたがたがあんなことをしてしまったのは、指導者たちと同様に無知のためであったと、わたしには分かっています。しかし、神はすべての預言者の口を通して予告しておられたメシアの苦しみを、このようにして実現なさったのです。だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい」(17‐19節)。

 なおも御手を伸ばしてくださったということは、そこに神の赦しがあることを意味します。それは「メシアの苦しみを、このようにして実現なさった」という言葉からもわかります。それは罪の贖いのための苦しみです。それは神が実現なさったのです。そのようにして、神が罪を消し去ってくださる。これは「拭い去る」という意味の言葉でもあります。ヨハネの黙示録には、神が私たちの「目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる」(黙示録21:4)と書かれていますが、そこにあるのは同じ言葉です。神がぬぐい取ってくださったら、もう永遠に涙はないでしょう。そのように、神の恵みを拒絶し続けてきた私たちの罪を完全にぬぐいとってくださるのです。

 そのために「悔い改めて立ち帰りなさい。」とペトロは言います。「悔い改めて立ち帰る」とはどういうことでしょう。命への導き手を拒絶し殺してしまった人にとって、悔い改めて立ち帰るとはどういうことでしょう。神の御手を払いのけて、十字架に釘付けしてしまった人にとって、悔い改めて立ち帰るとはどういうことでしょう。それは命の導き手なる御方を信じて受け入れるということでしょう。神が再び伸ばしてくださったその手を、今度はしっかりと握って、「立ち上がり、歩きなさい」という言葉を聞いた者として、立ち上がらせていただき、歩き出させていただくことなのでしょう。エミール・ブルンナーという神学者は、「信仰とはイエス・キリストにおいて差し出された神の手を握ることだ」と表現しましたが、まさにその信仰こそがここで求められていることなのです。私たちは信仰によって、罪を赦され、神との交わりに入れられるのです。そこにおいて、あの生まれながら足の不自由であった男に起こったことが、私たちにも起こるのです。私たちは神をほめたたえ、神を礼拝し、真に命あるものとして生きるのです。

2012年11月11日日曜日

「備えられている祝福にあずかりましょう」

2012年11月11日主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ガラテヤの信徒への手紙 3章1節〜14節 
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キリストは呪いとなって
  今日は子どもたちと共に「子ども祝福礼拝」をお捧げしています。先ほど、私たちは本日与えられているガラテヤの信徒への手紙の一部を読み、子どもたち一人 一人のために祝福を祈りました。今日の聖書箇所には確かに「祝福」という言葉が繰り返し出てまいります。しかし、先ほど朗読された時に気づかれたと思いま すが、そこにはまた「呪い」という言葉も繰り返されているのです。それはその対極にある「呪い」について語ることなくして、「祝福」については語り得ない ということなのでしょう。
 「呪い」ということについては、次のように書かれていました。13節を御覧下さい。「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです」(13節)。

 ご存じのように、キリストは毒殺されたのではなく、切り殺されたのでもなく、「十字架」にかけられて死にました。この手紙を書いたパウロは、そこに特別な 意味を見ています。彼は「木にかけられた者は皆呪われている」という旧約聖書の言葉を引用します。十字架にかけられたキリストは、確かに肉体的な苦痛を味 わわれたことでしょう。精神的な苦痛も受けられたことでしょう。しかし、木にかけられた、十字架にかけられたキリストの受けられた苦しみの本質はは「呪 い」にあったのだ言うのです。 

 「キリストは、わたしたちのために呪いとなって」と書かれています。「呪いとなって」というのは「呪われた者となって」ということです。呪われた者となる とは、言い換えるならば神から断罪されて見捨てられるということです。完全に見捨てられたということです。それがキリストの苦しみだったのです。それゆえ に、キリストは十字架の上で叫ばれたのです。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15:34)。そのイエス様の叫びは、肉 体的精神的苦痛の中で信仰が弱まってしまったという話ではないのです。キリストは実際に呪われたのです。断罪されたのです。捨てられたのです。愛する天の 父から捨てられたのです。そこにこそキリストの最大の苦しみがあったのです。 

 人は神に見捨てられていないこと、神に愛されていることさえ信じることができれば、苦難に耐えていくことができるのです。この手紙を書いているパウロもま た、そのような人のひとりです。多くの人がそのようにして苦難を耐え忍んできたのです。それは神に見捨てられているとは思っていないからです。そこにはな おも神の愛と希望の光が差し込んでいるのです。しかし、逆に言えば、この神から見捨てられてしまうということは、もはや一筋の光も差し込むことのない、完全な絶望の暗闇に置かれるということを意味するのでしょう。キリストが「呪いとなってくださった」とは、そういうことなのです。 

律法の呪いから贖い出してくださった 
 それは何のためですか。私たちを「呪いから贖い出す」ためだと聖書は教えているのです。「呪いから贖い出す」とは「呪いから救い出す」という意味です。私たちがもはや呪いを受けないためだ、というのです。これは何を意味しますか。キリストが呪いを受けてくださらなかったら、私たちが呪いを受けていたということです。キリストが呪われた者となってくださったのだけれど、本来、呪われた者となるべきであったのは、神から見捨てられて然るべきであったのは、私たちだったのだということです。

 どう思われますか。もしかしたら多くの人は、このような箇所を読んで、「いや、私は神から呪われたり、見捨てられたりするほど悪い人間ではない」と思うかもしれません。真面目に生きてきた人ならなおさらそう思うことでしょう。しかし、本当にそうなのでしょうか。

 例えば、身近な人間関係を考えてみてください。私たちの考えること、語っていること、行なっていることの大部分は人の目から隠されています。もし、仮にある人の前ですべてが暴かれたとしたら、すべてがさらけ出されたら、その人はなおあなたを愛するでしょうか。すべてが明らかになったとき、なお人はあなたを受け入れるでしょうか。むしろ、あいそをつかされ、軽蔑され、見捨てられたとしても不思議ではないのではありませんか。

 もっとも人と人との間であるならば、もしかしたら「お互い様でしょう」ということにもなるかもしれません。しかし、神と人との間においては、そうはならないでしょう。聖なる神の前にすべてが明らかにされるならどうでしょう。いや、既に神に御前においては全てが明らかなのです。しかも、そこで問題となるのは、人と比較して良いか悪いかということではないのです。私たちは絶対者の前に立った時、絶対的な基準で判断されるのです。ですからあえて「律法の呪い」と言われているのです。問題となっているのは神の律法なのです。私たちの道徳感ではありません。人からどう見られるかと言うことではないのです。神がどう見られるかということが問題となるのです。ならば、そのような神の前において、「私は呪いではなく祝福を受けるにふさわしい者です」と言える人などひとりもいないことは明らかでしょう。そう考えますと、確かに私たちは、本来、神から呪われて、永遠に見捨てられても仕方のない者であると言えるでしょう。

 しかし、神はそのような私たちを見捨てまいとされたのです。私たちのすべてをご存じの上で、私たちがどんな人間かをご存じの上で、また、この世がどれだけ罪に汚れているかをご存じの上で、この世をなお愛そうとされたのです。私たちをそれでもなお愛し、赦し、受け入れようとされたのです。それゆえに、裁かれなくてはならないこの世の罪、私たちの罪をすべてキリストの上に置かれ、キリストを裁かれ、キリストを捨てられたのです。キリストが、わたしたちのために呪いとなってくださった、呪われた者となってくださったのです。私たちが呪いを受けないためです。見捨てられないためです。

 「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました」。ここに救いがあるのです。キリストが呪いとなってくださったので、私たちが受けるべき呪いはもう残っていないのです。私たちが受けるべきものは呪いではなく、祝福しか残っていない。祝福された者として、神に愛されている者として、神と共に生きることだけです。何ものも私たちを神の愛から引き離すことはできないのです。他の手紙に書かれているように、もはや死でさえも神の愛から私たちを引き離すことはできないのです。どんなことがあっても神の愛を信じることが許されているのです。

ただ信仰によって 
 このように、十字架にかけられたキリストをパウロはガラテヤの信徒たちにも語ってきたのです。1節後半において、「目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか」と言っているとおりです。そのことを思い起こさせようとしているのです。なぜなら、ガラテヤの人たちは、それを忘れかけていたからです。十字架にかけられたキリストにもはや目を向けてはいなかったからです。

 ただキリストの十字架のゆえに、本来呪われるべき罪人が、罪を赦され、祝福を受けて今あるを得ていることを忘れて、自らの行ないを誇り、自らの力に頼って救われようとしていたのがこのガラテヤの信徒たちだったのです。彼らは十字架にかかられたキリストを信じてキリスト者となったはずでした。しかし、今や十字架無しで祝福を受けようとしていたのです。

 それは私たちにも起こり得ることです。キリストの十字架から目をそらしてしまう時、その人の信じるキリスト教は十字架抜きの道徳教になってしまいます。十字架抜きのクリスチャンは、熱心になればなるほどますます自分を誇るようになります。そして、その熱心さは、結果として世にも恐るべき傲慢な人間を作り上げるのです。

 今日の朗読は「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか」という嘆きの言葉から始まっていました。そうです、この世の言葉によって惑わされてはなりません。救いは私たちの行いと引き替えに獲得するのではないのです。祝福を受けるのは、私たちが何かを行うことによってではないのです。求められているのは信仰なのです。

 3章6節以下をご覧ください。「それは、『アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた』と言われているとおりです。だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、『あなたのゆえに異邦人は皆祝福される』という福音をアブラハムに予告しました。それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています」(3:6‐9)

 ここで言われている「信仰」とは何でしょうか。聖書は「信仰」について抽象的な定義付をしません。そうではなく、実際の信仰を物語り、具体的に信仰に生きた人を私たちに示すのです。そのひとりがアブラハムです。では、アブラハムはどのような意味で「信じた」のでしょうか。

 パウロが引用したのは創世記15:6です。本日の第一朗読において読まれた箇所です。創世記15章を見ますと彼には子供がいないことが分かります。彼は既に年老いておりました。その彼に神様は語られるのです。15章の4節からお読みします。「見よ、主の言葉があった。『その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。』主は彼を外に連れ出して言われた。『天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。』そして言われた。『あなたの子孫はこのようになる』」。これに続いて、先ほどの言葉、『アブラム(後のアブラハム)は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。』が来るのです。アブラハムは、ある意味では到底信じられないような神の言葉を受け入れたのでした。ただ神の約束を信じ、その約束に自分自身をゆだねたのです。自分の全存在をその約束にゆだねたのです。それが「信じる」ということの内容です。

 今も神様は、私たちに対してキリストの十字架を通して語りかけておられます。キリストが私たちの受くべき呪いをすべて受けて下さったということを語りかけておられるのです。ここに私たちの罪の赦しと命と祝福があることを、キリストの十字架によって示しておられるのです。もはや私たちは呪われた者として生きる必要がなく、決して絶望する必要がなく、どんなときにも神の愛の内にある者として生きることができると語られるのです。それは信じ難い約束かもしれません。アブラハムの子孫が星のごとくなるというのと同じくらい、いや、それ以上に信じ難いことかもしれません。しかし、十字架を通して語られた神に徹底して信頼することが信仰なのです。その約束に私たちの全存在をゆだねること、それが信仰なのです。それがキリストを信じるということなのです。そして、この信仰によって、私たちは祝福の内に生きるのです。

2012年11月4日日曜日

「わたしは道であり、真理であり、命である」 

2012年11月4日主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 14章1節〜6節
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 今日は「聖徒の日」です。天に召された方々を記念して礼拝をお捧げしています。私たちが記念しているのは、既に世を去られた方々です。しかし、この日、私たちが考えるべきことは「死について」ではありません。「命について」です。今日与えられた聖書の言葉は、命について語っている御言葉です。特に心に留めたいのは、ヨハネによる福音書14章6節です。今日の説教タイトルともなっています。「わたしは道であり、真理であり、命である」。ここで私たちは、ここでまことに驚くべき言葉を耳にしています。この御方は、ただ道を示されるだけではありません。「わたしが道なのである」と言われるのです。この御方は、ただ真理を語られるだけではありません。「わたしが真理なのである」と言われるのです。この御方は、ただ命へと導いてくださるだけではありません。「わたしが命なのである」と言われるのです。

父の家には住む所がたくさんある
 この言葉が語られましたのは、いわゆる「最後の晩餐」と呼ばれる場面です。イエス様は、御自分に迫っている恐るべき事態をよくご存じでした。まもなく捕らえられ、裁かれ、十字架にかけられ、殺されるであろうことをご存じであられました。主は確かに受難の道を、十字架の死に至る道を歩んでおられたのです。

 しかし、イエス様の御目は、ただ苦難と十字架だけに向けられていたのではありませんでした。主の眼差しは、十字架のその向こうに、向けられていたのです。先ほどお読みした14章1節以下を御覧ください。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか」(1‐2節)。主は十字架の死の向うに、父の家を見ているのです。主は御自分が父のもとに行くのだ、ということをはっきりと意識しておられたのです。

 さらにこう言われました。「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」(1‐3節)。そのように、父のもとに行くのはイエス様だけではないのです。弟子たちもまた、父のみもとに迎えられるのです。イエス様によって迎えられ、主のおられるところに弟子たちも共にいることになる、と語られているのです。

 イエス様は、弟子たちが行き着くところ、私たちが行き着くべきところを、明確に告げてくださいました。最終的に私たちが行き着くべきところ、それは《父の家》です。父なる神のみもとなのです。このことを意識するかしないかで、私たちの人生は変わります。どこに向かって生きるのかということが、その人の生き方を決定するのです。

 帰るべきところが父のみもとであり、父の家であるということは、私たちの人生を最終的に評価するのは、父なる神であるということです。このことは特にこの弟子たちに語られねばなりませんでした。というのも、弟子たちはこの先、困難と迫害の中を生きていかなくてはならなかったからです。すなわち、人々から憎まれて、何も成し遂げないままに、まるで無駄死にのような仕方で死んでいかなくてはならないことも、あり得るということなのです。そして実際、そのようなことは起こったのです。教会の歴史の中において繰り返し起こったのです。迫害の中で誰からも顧みられることなく、記憶されることなく閉ざされた人生を、いったい誰が評価するのでしょうか。それは父なる神なのだ、というのです。弟子たちは、そのことを知らなくてはならなかったのです。

 それは迫害の中にあるわけではない、私たちにおいても同じです。私たちの働きは、未完成に終わるかもしれません。途中で行き詰まり、あるいは不測の事態に翻弄されることがあるかもしれません。身を粉にして取り組んだことが、必ずしも人から評価されるとは限りません。まったく気にも留められないかもしれません。ありったけの愛を注ぎ込んでも、最後まで拒否されて終わるかもしれません。ただ無駄に失われていったとしか思えない年月があるかもしれません。しかし、それはそれで良いのです。そんなことで人生の意味は決まらないからです。私たちの一生を判断するのは、私たち自身ではないからです。他の誰かもありません。私たちは父のみもとに行くのです。父なる神が私たちを迎えてくださるのです。父が見てくださることこそ、父なる神が評価してくださることこそが、最終的に唯一意味を持つのです。

わたしは道である
 そのように、行くべきところが明確に告げられているということは、実に幸いなことです。しかし、ここで一つの問いが、私たちの心の中に頭をもたげてくるかもしれません。「キリストが父のみもとに帰ったからと言って、そのキリストと同じところに私たちもまた帰ることができると、本当に言えるのだろうか。父なる神が、私たちを受け入れ、迎え入れてくださるということを、本当に信じて良いのだろうか。」――もしそのような問いを持つ人がいるならば、その問いは実に健全な、正しい問いであると思います。なぜなら、事実、私たちとキリストとは異なるからです。

 キリストは父なる神から遣わされた御方として、父の御心だけを行いました。キリストには罪がありませんでした。そのようなキリストにとって、使命を終えて父のみもとに帰って行くということはことは、自明のことでした。父のみもとに場所があることは至極当然のことでした。ですから、十字架において死ぬことは、父なる神のみもとに移されることに他ならなかったのです。

 しかし、私たちは違います。私たちは決してキリストのように罪のない者ではありません。神に背いて、背いて、また背いて。そのようなことを繰り返してきた自分の人生をひっさげて、「神様、あなたのもとに私の場所があることは当然です」と言えるでしょうか。「あなたが私を迎えてくださることは当然です」と本当に言えるでしょうか。言えないだろうと思うのです。父なる神のもとに私たちの行き着くべき場所がある。それはどう考えても、本来あり得ないことなのです。

 しかし、皆さん、2節を御覧ください。そうであるからこそ、イエス様はわざわざ「あなたがたのために場所を用意しに行く」(2節)と言われたのです。「場所を用意しに行く」のです。つまり、それまでは用意されていない、ということです。はじめから私たちの場所があるのではない、ということです。父なる神のみもとに、私たちの場所があるとするならば、それはイエス様が用意してくださったから場所があるのであって、私たちが何かをしたからではないのです。イエス様がしてくださったことによるのです。

 キリストは場所を用意しに行くと言われました。そして、どうされましたか。主は十字架にかかって死なれたのです。言い換えるならば、キリストは、十字架にかかられ、自ら血を流して私たちの罪を贖うことによって、場所を用意してくださったのです。そのようにして、罪人である私たちが父に迎えられるようにしてくださったのです。

 いや、イエス様はただ場所を用意してくださっただけではありません。主は言われたのです。「わたしは道である」と。その道は父のみもとに行くための道です。キリストは十字架にかかり、罪を贖うことによって、私たちの通るべき道ともなってくださったのです。私たちは、イエス・キリストによる罪の贖いという道を通って、父なる神のみもとにいくしかないのです。それゆえ、イエス様は言われたのです。「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と。

 ヘブライ語の「道」という言葉は、もともと「踏みつける」という言葉に由来します。道というのは、人が踏みつけて通るものです。「道を通る」とはそういうことです。イエス様は、私たちが踏みつけて通るための道となってくださいました。私たちはそのままでは父のみもとに行けないから、父のみもとに行けるようにと、私たちが踏みつけて通るための道になってくださったのです。イエス様が十字架にかかって、私たちの罪を贖ってくださったとはそういうことなのです。イエス様が、「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と言われたのは、「だから、わたしを通って父のもとに行きなさい。わたしがあなたの罪の代償として苦しみを背負うから、わたしを踏みつけて通って父のもとに行きなさい」ということなのです

 わたしは真理であり命である 
 そのように、イエス・キリストは私たちに道を示してくださったのではなくて、キリスト自らが道となってくださいました。それこそが私たちの知るべき「真理」なのです。その「真理」そのものとして、イエス様は来られたのです。主は言われるのです。「わたしが真理である」と。

 ですから、真理を知るということは、単に「キリストについて知る」ということではありません。「キリストを知る」ということです。《キリストについて知る》ということと、《キリストを知る》ということは、異なるのです。《キリストを知る》ということは単なる知識ではありません。人格的な関係であり、人格的な交わりです。言い換えるならば、それは「信ずる」ことであり、「愛する」ことであり、「礼拝する」ことです。

 ですから、私たちは、週ごとに集まって、聖書の勉強会をするのではなく、キリスト教の勉強会をするのでもなく、礼拝をするのです。単にキリストについて語ったり、聞いたりするのではなく、祈り、讃美をするのです。単にキリストについての信仰箇条を信じるのではなく、キリストを信じるのです。私のために、あなたのために、命を投げ出して、父へと至る道となってくださった、そのキリストというお方を信じるのです。

 そのキリストが「わたしは命である」と言われたのです。ならばここで言う「命」とは単なる活力や生命力のことではありません。活き活きと生命力に満ち溢れて生きられることは素晴らしいことです。しかし、それが最終的に重要なことではありません。なぜなら、活力に溢れている人もまた死ぬからです。死はその人をも確実に呑み込んでいくのです。人間はいかなる状態にあったとしても、どんなに元気な人であっても、《死につつある》存在であることに変わりはありません。ですから、本当の意味で「命」が語られるためには、死が克服されていなくてはならないのです。

 イエス様は、「わたしは命である」と言われました。キリストにこそ、死の完全なる克服があります。キリストがおられるところにおいて、もはや死は力を持ち得ないのです。キリストとの交わりがあるならば、もはや何も恐れる必要はありません。なぜなら、キリストは父のみもとに場所を用意してくださる方であり、私たちが父のみもとへ行くための「道」そのものとなってくださったお方だからです。だからこそ主は「命」なのです。主は言われました。「わたしは道であり、真理であり、命である」と。

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