日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 11章28節〜44節
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「イエスは涙を流された」(35節)。そう書かれていました。原文では三つの単語から成る、聖書で最も短い節と言われます。「イエスは涙を流された」。しかし、イエス様の内にあったのはただ悲しみの感情だけではありませんでした。直前にはこう書かれています。「イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。『どこに葬ったのか。』彼らは、『主よ、来て、御覧ください』と言った」(33‐34節)。イエス様は憤りを覚え、興奮しておられた。主は何に対して怒られたのか。なぜ主は興奮され、そして涙を流されたのでしょう。そのことを考えながら、今日の箇所をお読みしたいと思います。
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「イエスは涙を流された」(35節)。そう書かれていました。原文では三つの単語から成る、聖書で最も短い節と言われます。「イエスは涙を流された」。しかし、イエス様の内にあったのはただ悲しみの感情だけではありませんでした。直前にはこう書かれています。「イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。『どこに葬ったのか。』彼らは、『主よ、来て、御覧ください』と言った」(33‐34節)。イエス様は憤りを覚え、興奮しておられた。主は何に対して怒られたのか。なぜ主は興奮され、そして涙を流されたのでしょう。そのことを考えながら、今日の箇所をお読みしたいと思います。
イエスの涙と憤り
エルサレムからおよそ三キロメートルほど離れたベタニアという村に、イエス様がしばしば立ち寄られた家がありました。マリアとマルタという姉妹、そしてその兄弟ラザロが住んでいた家でした。マリアとマルタはルカによる福音書にも出て来ます。イエス様と特別親しかった家族のようです。しかし、そのような幸いな家庭を、突然大きな悲しみが襲います。ラザロが病気になったのです。しかも、たいへん重い病気でした。ラザロは死に瀕しておりました。
マリアとマルタは急いでイエス様に使いを送って言いました。「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」。しかし、イエス様はすぐに向かおうとはされなかったのです。主は言われました。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」(4節)。そして、同じところになお二日滞在されたのです。
結局、イエス様が到着したのは、既にラザロが墓に葬られて四日も過ぎた後でした。ユダヤ人には民間の俗信がありまして、死んだ人の魂は三日ほど屍のまわりを漂っていると考えられていたようです。ですから、「墓に葬られて四日目」は完全に死んだことを意味します。遅すぎたということです。もはや終わりであって、望みはない。イエス様はラザロを助けることはできなかったということです。
今日お読みした箇所でも、マリアがこう言っていました。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(32節)。つまり来て下さるのが遅すぎた、と言っているのです。どうしてもっと早く来てくださらなかったのか。どうしてもっと早く助けてくださらなかったのか。そう言ってマリアは泣いていたのです。また、ユダヤ人たちがこう言っています。「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」(37節)。そのような言葉と共に、一緒に来たユダヤ人たちの泣き叫ぶ声が響いている。今日お読みしたのはそのような場面です。
そのような場面は、私たちにも覚えがあります。私たちの身近な人、親しい人が亡くなった時、同じことを呟くかもしれません。イエス様はどうしてもっと早く助けてくださらなかったのか。手遅れになってしまったではないか。イエス様でさえも、この人を死なないようにはできなかったのか。この福音書が書かれた頃、その読者の中には同じような思を抱いている人がいたかもしれません。迫害の中で悲惨な姿で死んでいった人たちを見て、どうして早く助けてくださらなかったのか、イエス様はこの人が死なないようにはできなかったのか、と思う人がいたとしても不思議ではないでしょう。
そのように泣き叫ぶ人々の声。もっとも、当時の習慣としては泣き女や泣き男と呼ばれる人々もいたと言います。ですから、そこに響いていたのが全て悲しみの声であったとは言えないかもしれない。しかし、それでもなお人間の泣き叫ぶ声が響き渡っている光景は象徴的と言えます。死を前にした人間の不信仰、そして人間の絶望がそこにあります。そのような、死という現実を前にした不信仰と絶望の支配の中にイエス様は入って来られたのです。
そして主は憤りを覚えた。その憤りは何に対してなのでしょう。絶望に支配されている人々に対してでしょうか。いやそうではないでしょう。イエスは涙を流されたのです。共に涙を流されたのです。ならば憤りがどこに向けられているかは明らかです。それは不信仰の支配そのものに対してです。絶望の支配そのものに対してです。いやさらに言うならば、不信仰と絶望をもって人間を支配しようとしている者に対してと言うのが正しいのでしょう。ヨハネによる福音書では「この世の支配者」と呼ばれている悪魔に対してです。主は絶望の暗闇に人間を閉じ込めている悪魔に対して憤られ、またその支配のもとにある人間の現実に涙を流されたのです。
石を取りのけなさい
マリアとマルタは急いでイエス様に使いを送って言いました。「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」。しかし、イエス様はすぐに向かおうとはされなかったのです。主は言われました。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」(4節)。そして、同じところになお二日滞在されたのです。
結局、イエス様が到着したのは、既にラザロが墓に葬られて四日も過ぎた後でした。ユダヤ人には民間の俗信がありまして、死んだ人の魂は三日ほど屍のまわりを漂っていると考えられていたようです。ですから、「墓に葬られて四日目」は完全に死んだことを意味します。遅すぎたということです。もはや終わりであって、望みはない。イエス様はラザロを助けることはできなかったということです。
今日お読みした箇所でも、マリアがこう言っていました。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(32節)。つまり来て下さるのが遅すぎた、と言っているのです。どうしてもっと早く来てくださらなかったのか。どうしてもっと早く助けてくださらなかったのか。そう言ってマリアは泣いていたのです。また、ユダヤ人たちがこう言っています。「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」(37節)。そのような言葉と共に、一緒に来たユダヤ人たちの泣き叫ぶ声が響いている。今日お読みしたのはそのような場面です。
そのような場面は、私たちにも覚えがあります。私たちの身近な人、親しい人が亡くなった時、同じことを呟くかもしれません。イエス様はどうしてもっと早く助けてくださらなかったのか。手遅れになってしまったではないか。イエス様でさえも、この人を死なないようにはできなかったのか。この福音書が書かれた頃、その読者の中には同じような思を抱いている人がいたかもしれません。迫害の中で悲惨な姿で死んでいった人たちを見て、どうして早く助けてくださらなかったのか、イエス様はこの人が死なないようにはできなかったのか、と思う人がいたとしても不思議ではないでしょう。
そのように泣き叫ぶ人々の声。もっとも、当時の習慣としては泣き女や泣き男と呼ばれる人々もいたと言います。ですから、そこに響いていたのが全て悲しみの声であったとは言えないかもしれない。しかし、それでもなお人間の泣き叫ぶ声が響き渡っている光景は象徴的と言えます。死を前にした人間の不信仰、そして人間の絶望がそこにあります。そのような、死という現実を前にした不信仰と絶望の支配の中にイエス様は入って来られたのです。
そして主は憤りを覚えた。その憤りは何に対してなのでしょう。絶望に支配されている人々に対してでしょうか。いやそうではないでしょう。イエスは涙を流されたのです。共に涙を流されたのです。ならば憤りがどこに向けられているかは明らかです。それは不信仰の支配そのものに対してです。絶望の支配そのものに対してです。いやさらに言うならば、不信仰と絶望をもって人間を支配しようとしている者に対してと言うのが正しいのでしょう。ヨハネによる福音書では「この世の支配者」と呼ばれている悪魔に対してです。主は絶望の暗闇に人間を閉じ込めている悪魔に対して憤られ、またその支配のもとにある人間の現実に涙を流されたのです。
石を取りのけなさい
しかし、主はただ憤られ、涙を流されただけではありませんでした。主は言われます。「どこに葬ったのか。」人々は答えました。「主よ、来て、御覧ください」。そして、主はラザロが葬られた墓に向かわれたのです。死んで既に四日経っている死者の葬られているその墓へと向かわれるのです。人間の目からみて手遅れとしか見えないそのところに、もはや完全な終わりでしかないそのところに、主は向かわれるのです。そのようにして、憤りをもって悪魔に立ち向かわれるのです。
主は言われます。「その石を取りのけなさい」(39節)。死んだラザロの姉妹マルタは答えました。「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」。そう言わざるを得ない現実げ厳然として目の前にあります。ですからマルタにとっては石を取りのけても意味がないのです。しかし、そのようなことは重々承知の上で主は言われたのです。「その石を取りのけなさい」と。ならばそれは何を意味するのか、明らかでしょう。そこでなお信じなさいということでしょう。主が求めているのは、死という現実を前にして、なおそこで「信じる」ことなのです。主はこう言われるのです。「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」(40節)。
「もし信じるなら」。――そのことについては既に語られていました。主は「四日もたっていますから、もうにおいます」と言うマルタに、既にこう言っておられたのです。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(25‐26節)。
イエスは復活であり命である。復活であり命である御方が、完全な絶望の中に入って来られたのです。人間の目に死は《終わり》としか見えないかもしれない。しかし、そこに復活であり命である御方が来られると、《終わり》が《終わり》ではなくなるのです。絶望ではなくなるのです。このことを信じるか、と主は言われたのです。そして、今日お読みしたこの場面においても、主は墓を前にしてもなお人が信じることを求めておられるのです。
ラザロ、出て来なさい
そこで人々が石を取りのけると、主は父なる神に祈り、そして大声で叫びました。「ラザロ、出て来なさい」。墓の中にキリストの声が響き渡ります。「すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た」と書かれています。さて、この奇跡物語について一つだけ大事なこととして触れておきたいと思います。それは、ここでの出来事がユダヤ人たちの殺意を引き起こす直接の原因になったということです。言い換えるならば、キリストが十字架にかけられる原因になったということです。
45節以下にはこう書かれています。「マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた」(45‐46節)。そして、このことが最高法院における議論にまで発展するのです。このようなしるしを行う者を放置しておけば、皆が彼を信じるようになる。それは現体制を危機にさらすことになる。ということで、「彼には死んでもらうことにしよう」というのが大祭司の提案でした。そのゆえに53節には「この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ」と書かれているのです。
もっとも、このことは何も驚くべきことではなく、必然的な流れであったと言えます。イエス様がベタニアのラザロの家に着いた時から、主は既に大きな危険の中に置かれていたのですから。そうです。イエス様には分かっていたのです。自分がどこに向かっているのかを。十字架の死に向かって歩みを進めていることを知っていたのです。
そのような緊迫した状況の中で、イエス様は、「わたしは復活であり、命である」と宣言されたのです。それは十字架へと向かっている御方の言葉に他ならないのです。また、主は十字架へと向かっているお方として、憤られ、涙を流されたのです。そして、十字架へと向かっている御方として、このしるしを行われたのです。イエス様は墓の中のラザロに向かって、「大声で叫ばれた」と書かれていますが、このような表現がイエスについて用いられているのはここだけです。このしるしを行うことが、御自分の身に何をもたらすかを知った上で、主は大声で叫ばれたのです。いわばこれはイエス様の命をかけた叫びなのです。いわばイエス様は御自分の命と引き替えに、ラザロを墓から呼び出されたのです。「ラザロ、出て来なさい」と。
いや、もちろんそれはラザロ個人を墓から呼び出されるためではありませんでした。ここで墓から呼び出されたラザロも、やがては死んで再び墓に戻るわけでしょう。ですから、これは先ほどから言っていますように、あくまでも「しるし」なのです。イエス様が何をなそうとしておられるかを指し示すしるしだったのです。イエス様は、死を前にして絶望するしかない人間に、永遠の命を与えるために十字架へと向かっておられたのです。それこそが人間の悲しむべき現実に涙を流されたイエス様が成し遂げようとしておられたことなのです。
そのように、キリストは私たちの罪を贖うために十字架にかかってくださいました。それは私たちに罪の赦しをもたらし、神との交わりを与えるためでした。この永遠なる神との交わりこそが永遠の命なのです。復活であり命である御方によって永遠なる神との交わりが与えられるなら、主が言われるとおり「死んでも生きる」のです。いや、復活であり命であるお方によって、永遠なる神との交わりの中にあるならば、主が言われるとおり「決して死ぬことはない」とも言える。そこにおいて、もはや悪魔は死をもって人間を暗闇の中に閉じ込めることはできないのです。主は十字架において悪魔に対する完全な勝利をおさめられました。それこそが、人間の悲しむべき現実に涙を流されたイエス様が成し遂げてくださったことでした。
主は言われます。「その石を取りのけなさい」(39節)。死んだラザロの姉妹マルタは答えました。「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」。そう言わざるを得ない現実げ厳然として目の前にあります。ですからマルタにとっては石を取りのけても意味がないのです。しかし、そのようなことは重々承知の上で主は言われたのです。「その石を取りのけなさい」と。ならばそれは何を意味するのか、明らかでしょう。そこでなお信じなさいということでしょう。主が求めているのは、死という現実を前にして、なおそこで「信じる」ことなのです。主はこう言われるのです。「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」(40節)。
「もし信じるなら」。――そのことについては既に語られていました。主は「四日もたっていますから、もうにおいます」と言うマルタに、既にこう言っておられたのです。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(25‐26節)。
イエスは復活であり命である。復活であり命である御方が、完全な絶望の中に入って来られたのです。人間の目に死は《終わり》としか見えないかもしれない。しかし、そこに復活であり命である御方が来られると、《終わり》が《終わり》ではなくなるのです。絶望ではなくなるのです。このことを信じるか、と主は言われたのです。そして、今日お読みしたこの場面においても、主は墓を前にしてもなお人が信じることを求めておられるのです。
ラザロ、出て来なさい
そこで人々が石を取りのけると、主は父なる神に祈り、そして大声で叫びました。「ラザロ、出て来なさい」。墓の中にキリストの声が響き渡ります。「すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た」と書かれています。さて、この奇跡物語について一つだけ大事なこととして触れておきたいと思います。それは、ここでの出来事がユダヤ人たちの殺意を引き起こす直接の原因になったということです。言い換えるならば、キリストが十字架にかけられる原因になったということです。
45節以下にはこう書かれています。「マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた」(45‐46節)。そして、このことが最高法院における議論にまで発展するのです。このようなしるしを行う者を放置しておけば、皆が彼を信じるようになる。それは現体制を危機にさらすことになる。ということで、「彼には死んでもらうことにしよう」というのが大祭司の提案でした。そのゆえに53節には「この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ」と書かれているのです。
もっとも、このことは何も驚くべきことではなく、必然的な流れであったと言えます。イエス様がベタニアのラザロの家に着いた時から、主は既に大きな危険の中に置かれていたのですから。そうです。イエス様には分かっていたのです。自分がどこに向かっているのかを。十字架の死に向かって歩みを進めていることを知っていたのです。
そのような緊迫した状況の中で、イエス様は、「わたしは復活であり、命である」と宣言されたのです。それは十字架へと向かっている御方の言葉に他ならないのです。また、主は十字架へと向かっているお方として、憤られ、涙を流されたのです。そして、十字架へと向かっている御方として、このしるしを行われたのです。イエス様は墓の中のラザロに向かって、「大声で叫ばれた」と書かれていますが、このような表現がイエスについて用いられているのはここだけです。このしるしを行うことが、御自分の身に何をもたらすかを知った上で、主は大声で叫ばれたのです。いわばこれはイエス様の命をかけた叫びなのです。いわばイエス様は御自分の命と引き替えに、ラザロを墓から呼び出されたのです。「ラザロ、出て来なさい」と。
いや、もちろんそれはラザロ個人を墓から呼び出されるためではありませんでした。ここで墓から呼び出されたラザロも、やがては死んで再び墓に戻るわけでしょう。ですから、これは先ほどから言っていますように、あくまでも「しるし」なのです。イエス様が何をなそうとしておられるかを指し示すしるしだったのです。イエス様は、死を前にして絶望するしかない人間に、永遠の命を与えるために十字架へと向かっておられたのです。それこそが人間の悲しむべき現実に涙を流されたイエス様が成し遂げようとしておられたことなのです。
そのように、キリストは私たちの罪を贖うために十字架にかかってくださいました。それは私たちに罪の赦しをもたらし、神との交わりを与えるためでした。この永遠なる神との交わりこそが永遠の命なのです。復活であり命である御方によって永遠なる神との交わりが与えられるなら、主が言われるとおり「死んでも生きる」のです。いや、復活であり命であるお方によって、永遠なる神との交わりの中にあるならば、主が言われるとおり「決して死ぬことはない」とも言える。そこにおいて、もはや悪魔は死をもって人間を暗闇の中に閉じ込めることはできないのです。主は十字架において悪魔に対する完全な勝利をおさめられました。それこそが、人間の悲しむべき現実に涙を流されたイエス様が成し遂げてくださったことでした。