2012年10月28日日曜日

「知恵の声に耳を傾けて生きる」

2012年10月28日主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書  箴言 8章22節〜31節
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天地創造に関わっていた神の知恵
 今日の礼拝においては箴言の一部が読まれました。そこには「わたし」という言葉が繰り返されていました。その「わたし」とは誰か。12節に「わたしは知恵」と書かれています。今日朗読されたのは「知恵」が語っている聖書箇所なのです。ということで、今日の説教題は「知恵の声に耳を傾けて生きる」となっております。

 ここで語っている「知恵」とは何者なのでしょう。27節以下にこんなことが書かれていました。「わたしはそこにいた、主が天をその位置に備え、深淵の面に輪を描いて境界とされたとき、主が上から雲に力をもたせ、深淵の源に勢いを与えられたとき、この原始の海に境界を定め、水が岸を越えないようにし、大地の基を定められたとき」(27‐29節)。ここに語られているのは要するに神の天地創造の話なのです。天地創造において、「わたしはそこにいた」と言っているのです。「そこにいた」というのは、もちろん「ぼーっと眺めていた」という意味ではなくて、「関わっていた」という意味です。天地創造に関わっていたというのですから、この「知恵」とは天地を造られた神の「知恵」です。天地創造に神の知恵が関わっていたということです。

 この世界の成り立ちに神の知恵が関わっているという認識は、この世界を見つめる人々に共通した、一番素朴な認識であると言えます。そのような他の例は、例えば詩編104編などに見られます。そこではこう歌われているのです。「主よ、御業はいかにおびただしいことか。あなたはすべてを知恵によって成し遂げられた。地はお造りになったものに満ちている」(詩104:24)。この自然界にはまさに知恵が働いたとしか言いようがない秩序がある。信仰の目を持って見るならば、その神の知恵に圧倒されざるを得ないのです。そのように天地創造に関わった「知恵」がここで語っているのです。そのことをまず心に留めてください。

同じ神に造られた人間として
 さてここで、今日お読みした「箴言」の言葉を伝えてきたイスラエルの民のことを考えてみましょう。
 イスラエルの民は、常に異なる宗教と文化を持つ諸国民との関わりの中に置かれていました。ソロモン王の時代、周辺諸国との貿易は盛んに行われるようになり、急速に国際化が進みました。ソロモン王の後、王国は分裂し、やがて北王国はアッシリアによって滅ぼされ、南王国はバビロニアによって滅ぼされます。生き残ったイスラエルの民は、固有の国土を失い、異教の大国の支配下に置かれました。こうして、イスラエルの民は、バビロニア、ペルシャ、ギリシャの支配のもとに生き続けたのです。そのように諸国民との関わり、あるいは諸国民の支配下に置かれている民として、イスラエルがそのアイデンティティを保ち続けることは何よりも重要なことでありました。彼らは自分たちが何者であるかを、常に心に留めねばならなかったのです。

 それゆえに彼らは自分たちの父祖アブラハム、イサク、ヤコブの話を伝え続けたのです。イスラエルの出エジプトについて伝え続けたのです。シナイ山における主との契約について語り続けてきたのです。イスラエルに与えられた律法について語り続けてきたのです。メシアの到来について語り続けてきたのです。そのようにして、彼らは、強烈なアイデンティティを保持し続けた。イスラエルがイスラエルであり続けることなくして、私たちは今このようにして聖書を手にしていることはなかったでしょう。

 しかし、そのような聖書の中に今日読んだ「箴言」もある。それはある意味で不思議なことなのです。というのも、この「箴言」の中には、イスラエルの伝統という文脈から生まれてきたのではない、むしろイスラエル以外の国々において生まれた格言が少なからず導入されているものと思われるからです。

 例えば、箴言の中には「マサの王レムエルが母から受けた諭しの言葉」(311)なるものも含まれております。マサは歴代誌によりますとイシュマエルの子ですから(歴代誌上1:29)、アラビアの方の一部族であると考えられます。それゆえに、この部分をアラビアの格言集からの引用であると考える人もおります。また、「箴言」と古代エジプトの知恵文学である「アメン・エム・オペトの教え」との密接な関係も、今から90年も前から論じられてきたことです。

 実際、この「箴言」という書物には「イスラエル」という言葉は一つの例外を除いて全く出て来ないのです。その例外とは「イスラエルの王、ダビデの子、ソロモンの箴言」という表題です。それ以外には出て来ない。実際、箴言に含まれる格言には何もイスラエルに固有のことではないものが多く含まれているのです。人間なら誰でも「そうですよね」と言える言葉がたくさん書かれているのです。例えば、「明日のことを誇るな。一日のうちに何が生まれるか知らないのだから」(27:1)。このことについては、イスラエルの民であろうがなかろうが関係ないでしょう。

 そこで私たちは先ほどお読みした言葉を思い起こさなくてはならないのです。箴言において先ほど読まれた箇所で語っていた「知恵」は、天地創造に関わった「知恵」でした。その「知恵」が8章30節以下ではこんなことを言ってます。「御もとにあって、わたしは巧みな者となり、日々、主を楽しませる者となって、絶えず主の御前で楽を奏し、主の造られたこの地上の人々と共に楽を奏し、人の子らと共に楽しむ」(30‐31節)良く聴いてください。「知恵」は「主の造られたこの地上の人々と共に楽を奏し、人の子らと共に楽しむ」と言っているのです。

 そこにはイスラエルだけではなく「主の造られたこの地上の人々」全体が視野に入っているのです。それは「神の土地である世界」というのが直訳です。そこではまた「人の子ら」が視野に入っているのです。すべての人間です。神の知恵は、「人の子らと共に楽しむ」と書かれているのです。「人の子ら」ですから、そこでは当然のことながら、イスラエルと他の人々との違いよりも、むしろ人間として共通のことに目が向けられることになります。言い換えるならば、神に造られた人間としてイスラエルの民も諸国民も同じ地平に立つのです。

この世に置かれている教会として
 さて、先ほど「イスラエルがそのアイデンティティを保ち続けることは何よりも重要なことであった」と申しました。同じことは教会とキリスト者についても言えるでしょう。教会もまた、この世界において、様々な異なる宗教と文化を持つ人々との関わりの中に置かれております。この国において、いまだキリスト者は全人口の一パーセントに満たない少数者であり続けています。教会が置かれている地域の住民のほとんどはキリスト者ではありません。私たちが日常生活を共にし、仕事を共にしている人々は、ほとんどの場合キリスト者ではありません。そのような国に存在する教会として、教会がキリストの教会として、またキリスト者がキリスト者としてのアイデンティティを保ち続けることは極めて重要なことです。教会は教会としての意識を持ち続けねばなりません。キリスト者は自分がキリスト者であることを意識せねばなりません。

 しかし、そこでなお私たちは、この「知恵」の語りかけを聞かなくてはならないのです。私たちは、神が、イエス・キリストを遣わされた救いの神であると同時に、天地を創られた創造の神でもあると信じているのです。神がこの世界を造られた。そこで必然的に教会とキリスト者だけでなく、創造された人間と世界全体が視野に入ってくることになります。そこでは教会とこの世の違い、キリスト者と非キリスト者の違いよりも、むしろ共に主によって造られた人間として共通のことに目が向けられることになるのです。キリスト者はただこの世界に福音を伝える者として《向き合って》立つだけでなく、同じ人間としてこの世界の全ての人間と《並んで》創造の神の御前に立つのです。

 考えてみれば、それこそまたキリストが私たちのためにしてくださったことでもあるのです。ヨハネによる福音書の冒頭には次のように書かれています。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」(ヨハネ1:1‐3)。新約聖書において、先に読んだ「知恵」と同一視されているのは「言」、すなわち肉を取られ人間となられる以前から、神と共にあった《先在のキリスト》です。そのキリストが肉となってくださった。人間となってくださったのです。まず人間として、私たち全ての人間と同じ地平に並んで立ってくださったのです。

 そのように《並んで》立つということとの関連で思い起こされるのは、フィリピの信徒への手紙に書かれているパウロの言葉です。「終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や賞賛に値することがあれば、それを心に留めなさい」(フィリピ4:8)。

 ここで語られています「真実なこと」「気高いこと」「正しいこと」云々といった徳目は、何もキリスト教会やキリスト者に固有のものではありません。ギリシアの思想家もまた語っていたことなのです。ことに「徳」と訳されている《アレテー》という言葉は、もともと長所や優れている点を意味する言葉なのです。例えば、畑の土や良いことや、刀が良く切れることなどです。そのように個々の人間についてもアレテーということが考えられます。ともかく、パウロがここで教会の中のことを言っているのではなく、フィリピの教会が置かれている異教的な社会、キリスト者が生まれ育ってきた異教的環境を念頭に置いていることは明らかです。パウロはそこで、あなたがたが生きている異教的世界は迷信と偶像礼拝と不道徳だけの真っ黒な世界だとは言っていないのです。そこにアレテーを見出したら、良きものを見いだしたら、それを心に留めなさい、と言っているのです。

 先に申しましたように、私たちが日常生活を共にし、仕事を共にしている人々は、ほとんどの場合キリスト者ではありません。そこには未信者の夫、未信者の妻、未信者の同僚や友人たちが共にいます。そこでそれらの方々に対して、キリスト者として向き合うことは大事ですが、それと共に重要なことは、神に創造された者として、同じ人間として、共に並んで立つことであるかもしれません。そして、身近なそれらの方々の中に、パウロが言いますように、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や賞賛に値することを見出してそれを心に留めることだろうと思うのです。そのように同じ人間として共に立ってこそ、「人間」に与えられたキリストの救いの恵みもまた共有されていくことになるのです。それこそ、天地創造に関わられた神の知恵に耳を傾けて生きるということなのでしょう。

2012年10月14日日曜日

「キリストの涙」

20121014日主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生 
聖書 ヨハネによる福音書 1128節〜44節
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  「イエスは涙を流された」(35節)。そう書かれていました。原文では三つの単語から成る、聖書で最も短い節と言われます。「イエスは涙を流された」。しかし、イエス様の内にあったのはただ悲しみの感情だけではありませんでした。直前にはこう書かれています。「イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。『どこに葬ったのか。』彼らは、『主よ、来て、御覧ください』と言った」(33‐34節)。イエス様は憤りを覚え、興奮しておられた。主は何に対して怒られたのか。なぜ主は興奮され、そして涙を流されたのでしょう。そのことを考えながら、今日の箇所をお読みしたいと思います。 

イエスの涙と憤り 
 エルサレムからおよそ三キロメートルほど離れたベタニアという村に、イエス様がしばしば立ち寄られた家がありました。マリアとマルタという姉妹、そしてその兄弟ラザロが住んでいた家でした。マリアとマルタはルカによる福音書にも出て来ます。イエス様と特別親しかった家族のようです。しかし、そのような幸いな家庭を、突然大きな悲しみが襲います。ラザロが病気になったのです。しかも、たいへん重い病気でした。ラザロは死に瀕しておりました。

 マリアとマルタは急いでイエス様に使いを送って言いました。「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」。しかし、イエス様はすぐに向かおうとはされなかったのです。主は言われました。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」(4節)。そして、同じところになお二日滞在されたのです。

 結局、イエス様が到着したのは、既にラザロが墓に葬られて四日も過ぎた後でした。ユダヤ人には民間の俗信がありまして、死んだ人の魂は三日ほど屍のまわりを漂っていると考えられていたようです。ですから、「墓に葬られて四日目」は完全に死んだことを意味します。遅すぎたということです。もはや終わりであって、望みはない。イエス様はラザロを助けることはできなかったということです。

 今日お読みした箇所でも、マリアがこう言っていました。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(32節)。つまり来て下さるのが遅すぎた、と言っているのです。どうしてもっと早く来てくださらなかったのか。どうしてもっと早く助けてくださらなかったのか。そう言ってマリアは泣いていたのです。また、ユダヤ人たちがこう言っています。「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」(37節)。そのような言葉と共に、一緒に来たユダヤ人たちの泣き叫ぶ声が響いている。今日お読みしたのはそのような場面です。

 そのような場面は、私たちにも覚えがあります。私たちの身近な人、親しい人が亡くなった時、同じことを呟くかもしれません。イエス様はどうしてもっと早く助けてくださらなかったのか。手遅れになってしまったではないか。イエス様でさえも、この人を死なないようにはできなかったのか。この福音書が書かれた頃、その読者の中には同じような思を抱いている人がいたかもしれません。迫害の中で悲惨な姿で死んでいった人たちを見て、どうして早く助けてくださらなかったのか、イエス様はこの人が死なないようにはできなかったのか、と思う人がいたとしても不思議ではないでしょう。

 そのように泣き叫ぶ人々の声。もっとも、当時の習慣としては泣き女や泣き男と呼ばれる人々もいたと言います。ですから、そこに響いていたのが全て悲しみの声であったとは言えないかもしれない。しかし、それでもなお人間の泣き叫ぶ声が響き渡っている光景は象徴的と言えます。死を前にした人間の不信仰、そして人間の絶望がそこにあります。そのような、死という現実を前にした不信仰と絶望の支配の中にイエス様は入って来られたのです。

 そして主は憤りを覚えた。その憤りは何に対してなのでしょう。絶望に支配されている人々に対してでしょうか。いやそうではないでしょう。イエスは涙を流されたのです。共に涙を流されたのです。ならば憤りがどこに向けられているかは明らかです。それは不信仰の支配そのものに対してです。絶望の支配そのものに対してです。いやさらに言うならば、不信仰と絶望をもって人間を支配しようとしている者に対してと言うのが正しいのでしょう。ヨハネによる福音書では「この世の支配者」と呼ばれている悪魔に対してです。主は絶望の暗闇に人間を閉じ込めている悪魔に対して憤られ、またその支配のもとにある人間の現実に涙を流されたのです。 

石を取りのけなさい 
 しかし、主はただ憤られ、涙を流されただけではありませんでした。主は言われます。「どこに葬ったのか。」人々は答えました。「主よ、来て、御覧ください」。そして、主はラザロが葬られた墓に向かわれたのです。死んで既に四日経っている死者の葬られているその墓へと向かわれるのです。人間の目からみて手遅れとしか見えないそのところに、もはや完全な終わりでしかないそのところに、主は向かわれるのです。そのようにして、憤りをもって悪魔に立ち向かわれるのです。

 主は言われます。「その石を取りのけなさい」(39節)。死んだラザロの姉妹マルタは答えました。「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」。そう言わざるを得ない現実げ厳然として目の前にあります。ですからマルタにとっては石を取りのけても意味がないのです。しかし、そのようなことは重々承知の上で主は言われたのです。「その石を取りのけなさい」と。ならばそれは何を意味するのか、明らかでしょう。そこでなお信じなさいということでしょう。主が求めているのは、死という現実を前にして、なおそこで「信じる」ことなのです。主はこう言われるのです。「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」(40節)。

 「もし信じるなら」。――そのことについては既に語られていました。主は「四日もたっていますから、もうにおいます」と言うマルタに、既にこう言っておられたのです。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(25‐26節)。

 イエスは復活であり命である。復活であり命である御方が、完全な絶望の中に入って来られたのです。人間の目に死は《終わり》としか見えないかもしれない。しかし、そこに復活であり命である御方が来られると、《終わり》が《終わり》ではなくなるのです。絶望ではなくなるのです。このことを信じるか、と主は言われたのです。そして、今日お読みしたこの場面においても、主は墓を前にしてもなお人が信じることを求めておられるのです。 

ラザロ、出て来なさい 
 そこで人々が石を取りのけると、主は父なる神に祈り、そして大声で叫びました。「ラザロ、出て来なさい」。墓の中にキリストの声が響き渡ります。「すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た」と書かれています。さて、この奇跡物語について一つだけ大事なこととして触れておきたいと思います。それは、ここでの出来事がユダヤ人たちの殺意を引き起こす直接の原因になったということです。言い換えるならば、キリストが十字架にかけられる原因になったということです。

 45節以下にはこう書かれています。「マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた」(45‐46節)。そして、このことが最高法院における議論にまで発展するのです。このようなしるしを行う者を放置しておけば、皆が彼を信じるようになる。それは現体制を危機にさらすことになる。ということで、「彼には死んでもらうことにしよう」というのが大祭司の提案でした。そのゆえに53節には「この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ」と書かれているのです

 もっとも、このことは何も驚くべきことではなく、必然的な流れであったと言えます。イエス様がベタニアのラザロの家に着いた時から、主は既に大きな危険の中に置かれていたのですから。そうです。イエス様には分かっていたのです。自分がどこに向かっているのかを。十字架の死に向かって歩みを進めていることを知っていたのです。

 そのような緊迫した状況の中で、イエス様は、「わたしは復活であり、命である」と宣言されたのです。それは十字架へと向かっている御方の言葉に他ならないのです。また、主は十字架へと向かっているお方として、憤られ、涙を流されたのです。そして、十字架へと向かっている御方として、このしるしを行われたのです。イエス様は墓の中のラザロに向かって、「大声で叫ばれた」と書かれていますが、このような表現がイエスについて用いられているのはここだけです。このしるしを行うことが、御自分の身に何をもたらすかを知った上で、主は大声で叫ばれたのです。いわばこれはイエス様の命をかけた叫びなのです。いわばイエス様は御自分の命と引き替えに、ラザロを墓から呼び出されたのです。「ラザロ、出て来なさい」と。

 いや、もちろんそれはラザロ個人を墓から呼び出されるためではありませんでした。ここで墓から呼び出されたラザロも、やがては死んで再び墓に戻るわけでしょう。ですから、これは先ほどから言っていますように、あくまでも「しるし」なのです。イエス様が何をなそうとしておられるかを指し示すしるしだったのです。イエス様は、死を前にして絶望するしかない人間に、永遠の命を与えるために十字架へと向かっておられたのです。それこそが人間の悲しむべき現実に涙を流されたイエス様が成し遂げようとしておられたことなのです。

 そのように、キリストは私たちの罪を贖うために十字架にかかってくださいました。それは私たちに罪の赦しをもたらし、神との交わりを与えるためでした。この永遠なる神との交わりこそが永遠の命なのです。復活であり命である御方によって永遠なる神との交わりが与えられるなら、主が言われるとおり「死んでも生きる」のです。いや、復活であり命であるお方によって、永遠なる神との交わりの中にあるならば、主が言われるとおり「決して死ぬことはない」とも言える。そこにおいて、もはや悪魔は死をもって人間を暗闇の中に閉じ込めることはできないのです。主は十字架において悪魔に対する完全な勝利をおさめられました。それこそが、人間の悲しむべき現実に涙を流されたイエス様が成し遂げてくださったことでした。

2012年10月7日日曜日

「この世に生きるということ」

 2012年10月7日主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ 5章1節〜10節
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地上の幕屋が滅びても
  「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天に ある永遠の住みかです」(1節)。そう書かれていました。要するに、「私たちは死をもって終わる人生を生きているのではない」ということです。そのこと が、ここで「住まい」を喩えとして、また「着物」を喩えとして語られているのです。

  まず、この世に生きる私たちの体が「幕屋」に喩えられています。私たちのこの体をもって生きるこの世の生活がテント住まいの生活に喩えられているのです。 それは感覚的に良く分かります。テントは暫定的な一時的な住まいです。テントは弱いものです。脆いものです。長く使っていれば綻びてきます。私たちのこの 世の生活はなるほどそのようなものです。私たちはこの体というテントが何百年も持たないことを知っています。綻びてきますから、修理しながら生活すること になります。やがてはこのテントは役目を終わることも知っています。

  そして、やがてはこのテントを手放すことになります。パウロはそのことについて着物をもって喩えます。私たちはこの体という着物を脱ぐ時が来るのです。脱 いだら裸になってしまうでしょう。私たちは裸のままなのでしょうか。いいえ「それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません」(3節)と書かれてい ます。ちゃんと別の着物が用意されているのです。1節にはその別の着物について語られていたのです。ただし着物ではなく、住まいに喩えられていました。一 度お読みします。「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られた ものではない天にある永遠の住みかです」。

  この世の体は「幕屋」すなわち「テント」です。しかし、神は「建物」を備えていてくださる。天の体です。テントのように綻びない、弱らない。一時的なもの でもない。それは「永遠の住みか」です。それを「上に着るのだ」と言うのです。住まいと着物の比喩がミックスされているので奇妙な表現ですが、言わんとし ていることは分かります。この世における生活をパウロはこう表現するのです。「わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上 の幕屋にあって苦しみもだえています」(2節)。

  「この地上の幕屋にあって苦しみもだえている」と彼は言います。そのことについても私たちは良く知っています。この体をもって生きることは、苦しいことで す。それは弱さを負いながら、綻びを繕いながら生きる苦しみでもあるでしょう。あるいはパウロは迫害の中にありましたから、他者の罪によって苦しめられる という苦しみもあるでしょう。あるいは、別の手紙で「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうと いう意志はありますが、それを実行できないからです」(ローマ7:18)ということも書いています。この体をもって生きることの大きな苦しみは、自分の罪 との戦いということでもあるでしょう。

  確かに、そのように私たちは「この地上の幕屋にあって苦しみもだえている」と言えます。しかし、ただ苦しんでいるのではない。「天から与えられる住みかを 上に着たいと切に願って」と書かれているのです。「願いつつ」の苦しみなのです。言い換えるならば希望を抱きつつということです。やがてはその願いが現実 となる時が来るのです。天から与えられる住みかを上に着る時が来るのです。それはいわば、最終的な救いの完成でもあります。すなわち罪と死から完全に解放 された体を着せられるのです。そのように「天から与えられる住みかを上に着たいと切に願」いつつのテント住まい。それがこの世における私たちだと聖書は 言っているのです。

天には建物が備えられている
  さて、ここで「天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って」と書かれているのであって、「地上の幕屋を脱ぎ捨てたいと切に願って」と書かれてはいな いことに注意してください。つまりパウロがここで語っていることの中心は「脱ぎ捨てること」にあるのではないのです。あくまでも「着ること」にあるので す。4節をご覧ください。「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬは ずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです」(4節)。

  どうしてパウロがこういうことを言っているかというと、脱ぎ捨てることに救いがあると教えていた異端の教師たちがいたからなのです。この肉体は魂の牢獄で ある。死はそこからの解放なのだ、と。そこで多くの人がこの世の生には意味がないと考えたのです。ただ苦しいだけの獄中生活。ただ死ぬことにこそ希望があ る、と。それはある意味では分からなくありません。絶えざる苦しみを負って生きている人は、そう思わざるを得ないでしょう。脱ぎ捨てることこそ救いだ、 と。

  しかし、同じように絶えざる苦しみを負っていたパウロですけれど、彼は苦しいこの幕屋生活の方に焦点を当てないのです。そうではなくて、天に備えられてい る建物の方に目を向けるのです。そこにおいて上から着せられる完全な救いの方に目を向けているのです。脱ぎ捨てたいものに目を向けて、脱ぎ捨てる時を待ち つつ今を生きるのと、着せられる完全なものに目を向けて、天に備えられているものを着せられる時を思いつつ今を生きるのでは、生きる意味合いが全く違って くるのです。そのようにパウロは地上において苦しみながらも、天に備えられているものを思いながら、既に備えられているものを喜びながら生きていたので す。

  ではいったい何がそれを可能としたのか。いや、「何が」ではなく「誰が」と言うべきでした。それはキリストなのです。十字架にかけられ、復活され、そして 天に挙げられたキリストなのです。パウロの救い主であり、私たちの救い主であるキリストです。パウロは天におられるキリストを愛し、慕い求め、礼拝してき たのです。主なるキリストを思いつつ共に天を仰いで礼拝する場所に、天と地とが出会って一つとなるその場所に身を置き続けてきたのです。その彼が天に備え られている救いを思って生きることは、きわめて当然のことだったのです。

ひたすら主に喜ばれる者でありたい
  そのように、パウロにとって救いの完成は天にある永遠の住みかを着ることであったのですが、さらに言うならば最も重要なことはそのこと自体ではありません でした。その救われた体をもって主と共にあることだったのです。6節をご覧ください。「それで、わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしている かぎり、主から離れていることも知っています。目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主 のもとに住むことをむしろ望んでいます」(6‐8節)。

  パウロにとって幕屋住まいにおける一番の問題は何だったのか。それは主から離れているということだったのです。いや、もちろん目に見えずとも、信仰におい て主と共にあるのです。それはパウロも分かっているのです。しかし、そこにはまた幕屋住まいにおける限界がある。それもまた事実です。ですから「体を離れ て、主のもとに住むことをむしろ望んでいます」と言うのです。今のこの体を離れることを望むのは、苦しみから離れるためではないのです。主のもとに住むた めなのです。そのように一番大事なのは、主と共にあること。主との関係。主との交わりなのです。ですから一番の願いもまた、それは「主に喜ばれる者」であ ることなのだと彼は言います。「だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい」(9節)。

  天幕住まいにおける私たちの信仰生活もまた、つまるところ、ここに向かわなくてはならないのでしょう。「体を住みかとしていても、体を離れているにして も、ひたすら主に喜ばれる者でありたい」。ここにこそ、また天幕住まいをしているこの地上の人生の意味もまたあるのです。これは苦しいだけの牢獄生活では ないのです。これはただ脱ぎ捨てるだけの体ではないのです。この世の生活は、この世の体は、主に喜ばれる者として生きるための生活であり、体なのです。確 かに苦しみがあります。罪との戦いもあります。不当な仕打ちを耐え忍ばなくてはならないこともあるかもしれない。しかし、そのようなこの世の人生こそ、主 を愛し、主に喜ばれることを求めて生きる実践の場なのです。

  だからまた、主もまたそのような私たちの生活を、関心をもって見ていてくださるのです。私たちがこの地上においてどう生きるかは主にとっての重要事項なの です。10節に書かれているのはそういうことです。「なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかと していたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです」(10節)。

  キリストの裁きの座の前に立つ。そのキリストは私たちの罪を十字架において贖ってくださった御方です。そして、信仰によって私たちの罪を赦し、義としてく ださった御方です。ですから、その裁きとは、私たちが救われるか滅びるかの裁きではありません。私たちの報いに関わる裁きです。

  主は私たちのこの地上の人生を関心をもって見ていてくださる。ですから「悪」もまたその御前にある。ですから、私たちは「どうせ赦されるのだから」と言っ て、主を侮るような生活をしてはならない。当たり前のことです。しかし、そこでは「悪」だけが裁かれるのではないのです。「善」もまた裁かれるのです。主 の目に善しとされること。それはもしかしたら、積極的な善行というよりは、ある場合にはただ主を信じて苦難を耐え忍ぶだけのことかもしれません。耐え忍び ながら愛を示して仕えることかもしれません。それはこの世においては報われないかもしれない。この世において報われないことはたくさんあるかもしれない。 しかし、主が報いてくださるのです。すべては報われるのです。私たちは、この世において報われるかどうかを気にしないで、ただひたすら主に喜ばれることを 考えていたらよいのです。それがこの天幕住まいにおいて求められていることなのです。

保証として与えられている聖霊
  さて、そこで最後に先ほど飛ばしました5節に戻ることにしましょう。次のように書かれています。「わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてく ださったのは、神です。神は、その保証として“霊”を与えてくださったのです」(5節)。私たちが天に備えられている永遠の住まいを着せられるとするなら ば、つまり完全な救いに与るとするならば、それは私たちがもともとふさわしいからとか資格があるからではありません。それはただ神の恵みによるのです。そ の恵みの目に見える現れは、今、こうして私たちが信仰生活を営んでいるということです。「“霊”を与えてくださった」とはそういうことです。私たちが今こ うしているのは、ただ神の霊のお働きによるのです。

  しかし、興味深いのは、「神は、その保証として“霊”を与えてくださったのです」と書かれていることです。「保証」という言葉は、「手付け金」を意味する 言葉です。全体は後で受け取るのです。その前に一部分を先に受け取るのです。その意味で「手付け金」であり「保証」です。私たちはやがて完全な救いにあず かります。天に備えられている体を着せられ、文字通り主と共に生きるのです。それがどれほど喜びに満ちたものであるか、私たちは想像することさえできませ ん。しかし、その一部を味わうことはできます。天幕住まいの間に、先だって味わうのです。それがこうして共に礼拝を捧げる教会生活なのです。それが聖霊を 与えられるということなのです。

  言い換えるならば、信仰生活の喜びを味わえば味わうほど、最終的な救いの希望もまた確かになってくるということです。やがて主と共にある希望をもって喜び つつ、今、信仰によって主と共に生きるということでもあるでしょう。そのように、天の恵みを味わいつつ、信仰の歩みを続けてまいりましょう。

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