2012年12月23日日曜日

「クリスマスの喜びを共に」

2012年12月23日クリスマス礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 2章1節〜7節
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罪のただ中に来られたキリスト 
 キリストはユダヤのベツレヘムに生まれたと伝えられております。イエスの母マリアも、父親とされるヨセフも、ベツレヘムに住んでいたわけではありません。彼らが生活の場を離れて、しかもマリアが身重であるにもかかわらず、どうしてもベツレヘムに旅をせざるを得なかったのは、皇帝アウグストゥスによって住民登録の勅令が出されたからです。奴隷も含めて全住民の数が調べられたのは、人頭税を課するためであったと言われます。それは、特に貧しい人々の上に、ずっしりと重い重荷を負わせることになったに違いありません。そもそも、生活の場を離れて旅をせざるを得ないこと自体、多くの人々の生活が脅かされることを意味しました。一人の権力を持つ人間によって、力ない者がその生活を脅かされます。平和な生活の場から追い出されます。弱い者はしばしばその命令に黙々と従わねばなりません。まことに理不尽なことです。しかしこの世界において決して珍しいことではありません。

 いや、これは権力者と民衆の間に限ったことではありません。抑圧されている人々は、痛みを負う者同志、分かち合い助け合い生きていくかと言えば、実際にはそうはなりません。そこでもまた場所の取り合いです。人は押しのけ合って生きていくのです。

 あの日の出来事を、聖書は次のように淡々と綴っています。「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」(ルカ2:6‐7)。淡々と語られているだけに、なおいっそう何とも言えぬやるせなさを感じます。

 何一つ必要なものが揃っていないその場所で、恐らくまともに産湯も使わせてもらうことなく、不潔な飼い葉桶の中に幼子は寝かされておりました。側には命がけの出産を終えて、極度の緊張と疲労のためにぐったりとしているマリアと、同じように緊張のために疲れ果てているヨセフがいたことでしょう。その日に羊飼いたちが来たとするならば、彼らが目にしたのは世にも悲惨な光景であったに違いありません。

 先ほど読まれた聖書箇所には「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」と書かれていました。はたして、そうなのでしょうか?本当は泊まる場所がなかったのではないでしょう。彼らのために場所を作ってやろうという人がいなかっただけではないですか。マリアが身重であるのは、誰の目にも明らかだったはずです。馬や牛じゃあるまいし、家畜小屋で簡単に赤ん坊を産み落とせるわけがありません。もし出産となれば、それが生死に関わることは、どんな鈍い人にだって分かったはずです。しかし、みんな自分のことで精一杯だったのです。彼らのことは気にはなったでしょう。でも自分の場所を確保することの方が大事だったのです。

 本当に暖かい場所を必要とする人たちが、宿屋から追い出され、家畜小屋のようなところに追いやられる。それもまた、形は違いこそすれ、この世の現実の姿です。誰の問題でしょうか。皇帝でしょうか。為政者たちでしょうか。社会的な構造が諸悪の根元なのでしょうか。いいえ、彼らだけの問題ではありません。私たちがこの場面に見る暗さは、私たち全ての人間に共通したエゴイズムと罪の暗さなのです。幼子が飼い葉桶に寝かされているのは、それは人間の罪のゆえなのです。

 いえ、あのクリスマスの物語の暗さは、聖書を読み進んでいきますと一層深くなってまいります。飼い葉桶に寝かされた幼子はどうなるのでしょう。この飼い葉桶の中にいる悲惨な幼子は、やがて十字架の上で悲惨な死を遂げることになるのです。生まれや育ちは貧しくて惨めでも、後には幸福になりました。大成して人々に尊敬される人になりました。そのような類の話なら、この世の中に数ある美談の一つともなるでしょう。しかし、この話は違います。産まれた時も惨めでした。そして、最後は人々に憎まれ、捨てられ、裏切られ、十字架にかけられて死にました。そこに寝かされているのは、そのような幼子なのです。あまりにも酷い話ではないですか。

 このように、クリスマスの物語には、暗い十字架の影が落ちています。「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」。いや、宿屋だけではありません。キリストには、地上のいかなる場所もありませんでした。最終的には、地からも上げられ、十字架にかけられて殺されるのです。地上には「十字架にかけろ。あの男を十字架にかけろ」という人々の叫びがこだましています。ゴルゴタの丘には十字架の上のキリストを罵り、あざける声が響き渡ります。父なる神を愛し、人々を愛された方は十字架の上にまで追いやられたのでした。

 神の御心を行おうとする人は、しばしば苦難へと、死へと追いやられる。それもまた、形は違いこそすれ、この世の現実の姿であろうと思います。確かにあの方は、最終的にはローマ皇帝の権力のもとに十字架にかけられました。しかし、あの方を十字架に追いやったのは、ただ単にローマ皇帝やユダヤ人の指導者たちだけではありません。私たちがあの十字架の場面に見る異様な暗さは、他ならぬ人間の罪の暗さなのです。人間の罪が、あの方を十字架に追いやったのです。

 しかし、私たちはそのような罪の暗さに、常に気づいているわけではありません。あのベツレヘムにおいて、自分の居場所を確保するのに精一杯であった人々は、そのように自分のために生きていることが、身重の女を馬小屋へ追いやっているなどと考えもしなかったに違いないのです。人が正当な権利を主張し、当然享受すべきものを享受しているのだと考えて生活していること自体が、実はすぐ身近にいる者に惨めさを強い、絶望と死の淵に追いやっている。そのようなことはいくらでも起こります。しかし、その当人は気づきません。

 十字架の場面においてもそうです。人々が「十字架につけろ」と叫んでいた時、彼らは自分が罪深い者だなどとは微塵も思っていなかったはずなのです。むしろ、彼らの多くは正義感に駆られて叫んでいたのです。人間の罪の最も深い闇は、その罪に気づかないところにこそあります。あるいは気づこうとしないところ、気づいても認めようとしないところにあるのです。そのような罪の深い闇のただ中で起きた出来事こそ、キリストの誕生でありました。それは決して美しく明るい出来事ではなかったのです。 

罪人を救うために来られたキリスト 
 しかし、それにもかかわらず、私たちはクリスマスを祝います。キリストの誕生を祝います。この日のために飾り付けをし、キャンドルを灯し、ホームページも新しくし、喜びをもって祝います。なぜでしょうか。

 今日の第二朗読にいうて、その答えが読み上げられました。「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」(1テモテ1:15)。クリスマスの出来事は、ただ単に、この罪の世のただ中にキリストがお生まれになったということではありません。罪人を救うためにこの世に来られた、という出来事なのです。もはや罪人は罪の中に希望なくうち捨てられている存在ではありません。この世界は、もはや罪のゆえに滅びるしかない世界ではありません。キリストが他ならぬ罪人を救うために来られたからです。そして、これを書いているパウロ自身が言うのです。「わたしは、その罪人の最たる者です」と。

 先ほど、「人間の罪の最も深い闇は、その罪に気づかないところにこそある」と申しました。それはパウロについても当てはまります。彼は、もともと自他共に認める「正しい人」でした。彼はもともとキリスト教会の迫害者だったのです。それは彼の正義感に基づく行動でした。教会の最初の殉教者であるステファノが石で打たれて殺された時、若きパウロは、恐らく何らかの責任ある立場として、その処刑に立ち会っていたのです。石で打たれ血塗れになって死んでいく一人の人をじっと見守りながら、その殺害を肯定している自分自身について、なんらのやましさも感じてはいなかったのです。

 その彼が、キリストを伝える伝道者となったのです。なぜでしょうか。彼の回心の次第は使徒言行録9章に詳しく記されております。それによりますと、サウロが迫害の手を伸ばすためにダマスコに向かう途上、突然、天からの光によって照らされ、地に打ち倒され、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」というキリストの声を聞いたということです。そこで実際に何が起こったのかは、よく分かりません。恐らくパウロ自身も自らの言葉をもってして十分には説明できなかったに違いありません。

 しかし、少なくとも二つのことだけは確かです。第一に、パウロがそこで自らの罪に気づいたということです。自分が正しいと思ってきたことが実は間違ったことであり、自分が知らないで行ってきたことがいかに恐るべき罪であるかということに気づかされ、打ちのめされたということであります。今まで他者を裁き、死にまで定めてきた者が、自ら裁かれるべき罪人として神の前にいることに気づいたということであります。

 そして、第二に、自らの罪を知ったパウロは、そこで彼に対して怒っているキリストに出会ったのではなく、彼を救おうとしているキリストに出会ったのだ、ということです。彼は、主の怒りに触れたのではなく、主の憐れみに触れたのです。その憐れみによって、彼は罪を赦され、救われ、そこから新しい命に生き始めたのです。

 そのようなパウロであるからこそ、確信をもってこう語るのです。「『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です」。キリストは来られました。罪の世のただ中に来られました。罪によって暗闇となった悲惨なこの世界のただ中に来られました。その御方は、飼い葉桶の中に寝かされた赤ん坊となり、十字架の上にかけられた死刑囚となられました。それは罪のない神の子が、この世の罪を自ら背負って苦しむ姿に他なりませんでした。神の子がそのような姿となられたのは、罪人である私たちが救われ、生かされるためでした。私たちが裁かれ、滅ぼされるのではなく、赦され、救われ、生かされるためでした。キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られたのです。

 それゆえ、この世はもはや神に見捨てられ、滅びへと定められた世界ではありません。いかなる人間も、どんなに神に背いてきた人であったとしても、神の憐れみの届かないところにいる人はいません。神の救いが届かないところにいる人はいません。キリストは罪人を救うために世に来られました。それゆえ、私たちはあのベツレヘムに起こった暗い出来事を祝うのです。飾り付けをし、キャンドルを灯し、喜びに溢れて祝うのです。光が来たなら、もはや闇は闇のままではないからです。

(祈り)
 憐れみ深い天の父、
 あなたはこの世界に救い主を与えてくださいました。あなたは暗闇の世界に救いの光を与えてくださいました。今、私たちはその光のもとに集められました。私たちが光の中を生きていくことができるように、と。主よ、特に今日は二人の方々が、信仰を言い表し、洗礼を受け、新しい命に生き始めます。私たち一同、こおにおいてあなたの救いの御業を目の当たりにし、喜びに満ち溢れてあなたを讃えるものとならせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

2012年12月16日日曜日

「メシアは本当に来られたのでしょうか」

2012年12月16日主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 11章2節〜15節
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荒れ野で叫ぶ声
 今日の福音書朗読にはヨハネという人が出て来ました。「洗礼者ヨハネ」と呼ばれる人物です。イエス・キリストに洗礼をさずけた人物です。彼がこの福音書に最初に登場するのは3章です。そこを先に見ておきましょう。

 3章1節から6節までをお読みします。「そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。『荒れ野で叫ぶ者の声がする。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」』ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」(3:1‐6)。

 彼の宣べ伝えた言葉がそこに書かれています。「悔い改めよ。天の国は近づいた。」この言葉、どこかで見たことはありませんでしょうか。渋谷や新宿の交差点で見かけたことはありませんか。黒地の大きな立て看板に黄色や白で「悔い改めよ」と書いてある。「世の終わりが来る」というようなことが書かれています。そして、そのような言葉が大きなスピーカーから聞こえてくるではありませんか。この箇所を読みますと、なんとなくあの人たちの姿を思い浮かべる人がいるかもしれません。

 ヨハネが「悔い改めよ。天の国が近づいた」と呼びかけていたのには理由があります。彼には確信があったのです。最終的な神の裁きが間もなく行われるということです。神が審判を下される終わりの日は差し迫っているということです。彼はこう言っていますでしょう。「ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。『蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。「我々の父はアブラハムだ」などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる』」(3:7‐10)。なんかますますあの人たちと重なってくるような気がしませんか。

 実際、ヨハネにとって、メシアの到来というのはそのような期待だったのです。ヨハネにとって来るべきメシアとは、第一に力ある王なのです。神の権威をもってこの世界に君臨し、この世の悪を正しく裁くことのできる王なのです。そのようなメシアの到来をヨハネがどのように思い描いていたかは、彼の描写から分かります。彼はこう言っているのです。「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」(3:11‐12)。

 彼が用いているのは脱穀のイメージです。「農夫が箕をもって麦を空中に放ると風がもみ殻を吹き分けます。そして麦は倉に入れられ、殻は焼き払われることになります。そのように、メシアを通して行われる最終的な神の裁きも行われると言うのです。この関連で「聖霊と火による洗礼」も語られております。明らかに「火」とは裁きの象徴です。では、聖霊はどうでしょう。実は、「霊」と「風」とは同じ単語なのです。ですから、ヨハネが意図していたのは「聖なる風」ということです。そうしますと、脱穀のイメージから言って、こちらももみ殻と麦を吹き分ける裁きの象徴であることが分かります。要するに、ヨハネはあくまでも、最後の裁きをなさる方としてのメシアを語っているのです。そして、そのヨハネが「この人こそ来るべきメシアだ」と信じていた人物こそ、あのナザレのイエスだったのです。

見聞きしていることを伝えよ
 やがて、ヨハネは捕らえられ獄中の人となりました。今日お読みした聖書箇所ではヨハネが牢の中にいることが書かれていましたでしょう。事の顛末は14章に記されております。簡単に言えば、領主ヘロデの罪を指摘し、その淫行を糾弾したのです。領主ヘロデにも悔い改めを求めたのです。しかし、彼は投獄され、ヘロデは何もなかったかのように平和に生活をしていた。それはヨハネにとっては決して想定外のことではなかったでしょう。それこそがまさに神に裁かれなくてはならないこの世の現実であることを知っていたからです。この世の悪の力によって投獄されたヨハネは、いよいよイエスへの期待を膨らませたに違いありません。自分が世の中から去った後、イエスはどのような行動を起こすのか。神の裁きの風はどのように吹くことになるのか。

 ところが、いつまで経っても、何一つ期待どおりのことは聞こえてこないのです。伝え聞くことは、イエスの周りにはいつでも悪霊に憑かれた人や病気で苦しむ人に取り囲まれているということ。罪人や徴税人たちを集めては一緒に食事をしているということ。弟子たちには「悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」と教えていること。さらには、「あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい」などと教えているということ。「天の父である神は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」というような話をしているということ。麦と殻を吹き分ける風はどうしたのでしょう。殻を焼き払うはずの火はどこにあるのでしょう。最終的な審判がまだだとしても、例えば旧約聖書に出て来るエリヤのように、天から火を下して見せるとか、神の怒りを垣間見させるような奇跡を起こして、人々を震え上がらせたというような話はまったく聞こえてこないのです。

 獄中にいるヨハネは揺らぎました。それが今日の福音書朗読で読まれた場面です。もう一度お読みします。「ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。『来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか』」(2‐3節)。

 その問いに対して、イエス様はこう答えられました。4節以下をご覧下さい。「イエスはお答えになった。『行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。』」(4‐6節)

 先に見たように、ヨハネは人々に悔い改めを呼びかけたのです。そして、多くの人がヨハネのもとに来たのです。先ほど見たように、そこには「エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」と書かれているのです。ヨハネはそのようにして、神から与えられた務めを行い、そして投獄され社会からは消えました。それは準備だったのです。イエス様はヨハネを「預言者以上の者」と呼びました。10節でこう言っていますでしょう。「『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』と書いてあるのは、この人のことだ」と。そうです、ヨハネは道を準備したのです。そして、その先に何が起こっているのか。何が起こっているのかをよく見なさい、よく聞きなさい。イエス様はそう言っておられるのです。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい」と。

 何が起こっているのか。目の見えない人、足の不自由な人、重い皮膚病を患っている人たち、貧しい人たち、イエス様のもとに来て、イエス様と出会った多くの人は、皆、神から見捨てられていると思っていた人たちです。しかし、その人たちが神の憐れみに触れたのです。神から見捨てられていないという事実に触れたのです。イエス様が到来して人々は神の愛に触れたのです。そのような出来事がはじまっている。そう既に始まっていることに目を向け、耳を傾けなさいとイエス様は言っておられるのです。

 そもそも悔い改めとは何でしょう。地獄に落ちないように良い人間になることでしょうか。神から罰せられないように、悪いことを改めて良い人間になることでしょうか。悔いて改めることでしょうか。いいえ、悔い改めとは方向を変えることなのです。方向を変えて神のもとに立ち帰ることなのです。悔い改めとは神への復帰です。神を離れた生活の方向転換をし、神に立ち帰ることなのです。イエス様のたとえ話で言うならば、父のもとを離れて放蕩していた息子がボロボロの姿のまま父のもとに帰ってきたように、そのように神のもとに帰ってくることなのです。

 そして、神のもとに帰るのは、罰を免れるためではないのです。災いを免れるためではないのです。神の怒りを鎮めるためでもないのです。そうではなくて、神の愛に出会うためなのです。神の愛の内を生きるためなのです。イエス・キリストはその意味において、来るべき御方だったのです。来るべき御方として来られたのです。神の愛の啓示として来られたのです。そして、その神の愛の啓示は最終的にキリストの十字架に至るのです。方向を変えて神に立ち帰った人がそこで出会うのは何か。十字架にかけられたキリストの姿なのです。その流された血による神の赦しなのです。

 確かにこの世界に悪はあります。暗闇が依然として覆っている世界であり、その意味においては夜明け前の暗闇ではあります。この世界を不義が支配している。正義はねじ曲げられています。正しいヨハネが投獄されるようなことが今日においても起こります。それゆえに苦しみもある。理不尽な悲しみもある。この世界にも私たちの人生にも解決していない問題は山ほどあるのでしょう。しかし、既にメシアは来られたのです。ですから、既に始まっていることがあるのです。確かにあります。ここにも見ることができます。神のもとに立ち帰って、私たちはここで共に礼拝を捧げている。ここには神の赦しがあり、私たちの内に働く神の回復の御業がある。私たちは神の憐れみに触れながら生活しているのです。そうです、信仰生活において、既に私たちは神の愛に出会い始めている。天の御国を味わい始めているのです。そこにしっかりと目を向けて生きていきましょう。

2012年12月9日日曜日

「神と結ばれた契約」 

2012年12月9日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 イザヤ書 59章12節〜21節
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光を望んだが闇に閉ざされ 
 今日朗読された聖書箇所は、「御前に、わたしたちの背きの罪は重く、わたしたち自身の罪が不利な証言をする。背きの罪はわたしたちと共にありわたしたちは自分の咎を知っている」(12節)という言葉から始まっていました。

 なぜこのような言葉が語られているのか。その背景となる言葉が9節以下に書かれていますので、そちらを先に見ておきましょう。「それゆえ、正義はわたしたちを遠く離れ恵みの業はわたしたちに追いつかない。わたしたちは光を望んだが、見よ、闇に閉ざされ輝きを望んだが、暗黒の中を歩いている。盲人のように壁を手探りし目をもたない人のように手探りする。真昼にも夕暮れ時のようにつまずき死人のように暗闇に包まれる。」(9‐10節)。

 これがこの人の置かれている状況です。いや、この人だけではありません。「わたしたちは」と言っているのですから。これは彼が目にしている当時の社会の描写なのです。誰もが光を望みながらも現実には闇に閉ざされている社会。先が見えないゆえに、どちらに進んだらよいのかわかない。いったいどうしたらよいのかわからない。まるで手探りをしながら歩いている人であるかのように、そのような生き方しかできない。それゆえにまた、繰り返し繰り返しつまずいて、倒れて、誰も彼も皆が傷だらけになっている。

 今から2500年も前の言葉です。しかし、今日こうして読んでいて、まったく古さを感じません。彼が今日の日本を描写するならば、恐らく同じ言葉をもって表現するのだろうと思います。光を望みながらも闇に閉ざされた社会。そのような暗闇の中にうなり声が響いています。こう書かれているのです。「わたしたちは皆、熊のようにうなり鳩のような声を立てる。正義を望んだが、それはなかった。救いを望んだが、わたしたちを遠く去った」。怒りと苛立ちに満ちたうなり声、呟きの声が響いています。「正義がない!救いがない!」と。それは昔も今も変わりません。

 そのようなうなり声はいつでも他者に向けられた苛立ちの声であり怒りの声なのでしょう。ある時は政府に向けられ、為政者たちに向けられ、ある時は教師たちに向けられ、ある時は家族に向けられ、親に向けられ、ある時は近所の人々に向けられ、ある時は教会にも向けられる。そうです、暗闇の中にあってつまずき倒れ、傷つく時に、怒りは他者に向けられるのです。「ここには正義がない!救いがない!」と。そして、怒りと苛立ちは神にさえも向けられる。「正義がない!救いがない!」と。そうです、いつでも人は暗闇の中にあって裁く側に身を置くのです。
 しかし、私たちは本当に裁く側に身を置くことができるのでしょうか。「正義を望んだが、それはなかった。救いを望んだが、わたしたちを遠く去った」ということについて、他の誰かにその責任を問うことができるのでしょうか。いや、裁く側に立つことはできない、ということが、既にこの章の初めに語られているのです。主はこう言われるのです。「主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が神とお前たちとの間を隔てお前たちの罪が神の御顔を隠させお前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ」(1‐2節)。

 そのように、本当に裁く側に立てるのは神なのです。そして、その神の目から見るならば、ここに書かれているように、第一の問題は人と人との間にあるのではないのです。そうではなくて神と人との間にあるのです。神と人との間が隔てられている。断絶している。関係の破れがそこにある。それこそがこの世界の根本問題であり人生における根本問題なのです。神との関係がどうなっているのかを問うことなくして、裁く側に身を置いて「正義がない。救いがない」と語っていることこそが問題なのです。

執り成す者はひとりもいない
 そのように暗闇として描写される社会そのものが神の御前にある。そこにいる私たち皆が神の御前にある。そのことに目を開かれた人の言葉を今日私たちは読んでいるのです。今日朗読された言葉は、そのような言葉なのです。もう一度お読みします。

 「御前に、わたしたちの背きの罪は重くわたしたち自身の罪が不利な証言をする。背きの罪はわたしたちと共にありわたしたちは自分の咎を知っている。主に対して偽り背きわたしたちの神から離れ去り虐げと裏切りを謀り偽りの言葉を心に抱き、また、つぶやく。こうして、正義は退き、恵みの業は遠くに立つ。まことは広場でよろめき正しいことは通ることもできない」(12‐14節)。

 繰り返されているのは「わたしたち」という言葉です。「わたしたち」とは重い言葉です。そこには、他ならぬこの「わたし」も含まれているわけですから。裁く側に身を置いて「正義がない。救いがない」と言っている時、そこには「わたし」は含まれていないのでしょう。しかし、神の御前に立つならば、自分も含めて「わたしたち」と語らざるを得ない。「御前に、わたしたちの背きの罪は重い」と言わざるを得ないのです。

 ここにいる私たちにとっていかに大事なことが語られていることでしょう。例えば私たちにおいては、それまで政府に対して怒っていた人が「御前にわたしたちの背きの罪は重いのです」と跪いて祈るようになる。教師に、家族に、教会に対して怒っていた人が、「御前にわたしたちの背きの罪は重いのです」と跪いて憐れみを乞うて祈るようになる。「背きの罪はわたしたちと共にあり、わたしたちは自分の咎を知っています」と、神の御前に認めて祈るようになる。それがどれほど大事なことかを改めて思わされるのです。

 さて、そのように裁く側に立つのではなく、自らの罪として「わたしたちの背きの罪は重いのです」と祈る者となる時に、鮮やかに見えてくることがあります。それは正しい人はいない、一人もいないということです。後にパウロという人が詩編を引用してこう言っているのです。「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない」(ローマ3:10‐12)。

 ご存じのようにパウロという人はかつて教会を迫害していた人だったのです。彼はかつて怒りに燃えていた人でした。断罪する側に立っていた人でした。しかし、その彼がすべての人が神の正しい裁きのもとにあることを知った時、そして、それこそ「御前に、わたしたちの背きの罪は重いのです」と言わざるを得なくなった時、まさにこう言わざるを得なくなったのです。「正しい者はいない。一人もいない」。

 この人も同じでした。彼は預言者です。預言者というのは神の言葉を人々に伝える人です。先に見たように、彼は人々に「主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が、神とお前たちとの間を隔て、お前たちの罪が神の御顔を隠させ、お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ」とも語ってきたのです。ではその隔てを彼は取り除くことができるのか。彼は人々と神との間に立って、神に執り成すことができるのか。いいえ、彼にもできないのです。彼自身もまた「御前に、わたしたちの背きの罪は重いのです」と言わざるを得ない者だからです。彼の認識も同じでした。正しい者はいない。一人もいない。それゆえに、彼はこう語るのです。「主は正義の行われていないことを見られた。それは主の御目に悪と映った。主は人ひとりいないのを見、執り成す人がいないのを驚かれた」(15b‐16a)。

主の救いは主の御腕により
 彼には分かっているのです。神の目には、執り成すことのできる人、隔てを除くことのできる人は正しい人はひとりもいないことを。それは何を意味するのでしょう。人間の側から救いの道を開くことはもはやできない、ということです。それを成し得る人がいないのですから。しかし、この預言者の言葉はそこで終わらないのです。その先があるのです。人間の側から救いの道を開くことができないゆえに、神が自ら行動を起こされるのです。人間の罪による神との関係の破れについて、人間の側からはどうすることもできなかったことが、神の側から始まるのです。16節の「主は人ひとりいないのを見執り成す人がいないのを驚かれた。」という言葉は次のように続くのです。「主の救いは主の御腕により主を支えるのは主の恵みの御業」(16節後半)。

 「恵みの御業」という言葉は、「正義」とも訳せる言葉です。しかし、これは人間の正義ではありません。神の正しさです。神は自ら救いの行動を起こされるのです。「主の御腕による」とはそういうことです。人間によらない。神様がなされるのです。そのように神様が行動を起こされるのは、人間の正しさのゆえではないのです。人間の正義に基づくのではないのです。正しい者はいない、一人もいないのです。それゆえに神の正しさに基づいて行動されるのです。「主を支えるのは主の恵みの御業(正義)」とはそういうことです。

 そのように主は贖う者として来られるのです。20節に書かれているとおりです。「贖う者」とは「救う者」と言い換えてもよいでしょう。そうです、神は救いの神として来られるのです。しかし、そこにははっきりとこう書かれています。「罪を悔いる者のもとに来ると主は言われる」。

 さて、アドベント(待降節)の期間に、どうしてこの聖書の箇所が読まれたのか、もうお気づきのことでしょう。私たちは、神自ら決定的な行動を起こされたことを祝おうとして準備しているからです。言うまでもなく、クリスマスのことです。神がこの世界に独り子を与えられた。神がこの世界にキリストをお与えくださった。神と人との間を執り成すことのできる正しい人がひとりもいないこの世界に、神が唯一、神と人との間を執り成すことのできる御方を置かれたのです。神と人との間を隔てる罪の隔てを取り除くことのできる御方を置かれたのです。そして、キリストは私たちの罪を自ら背負って十字架にかかり、私たちの罪の贖いをなし、私たちのために執り成してくださったのです。「父よ、彼らをお赦しください」と。

 21節にはこう書かれていました。「これは、わたしが彼らと結ぶ契約であると主は言われる。あなたの上にあるわたしの霊、あなたの上にあるわたしの霊、あなたの口においたわたしの言葉は、あなたの口からも、あなたの子孫の口からも、あなたの子孫の子孫の口からも、今も、そしてとこしえに、離れることはない、と主は言われる」(21節)。59章は「…お前たちの悪が神とお前たちとの間を隔て、お前たちの罪が神の御顔を隠させ、お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ」というところから始まったのです。それが本来私たちのいるべきところだったのです。しかし、今や、神の霊と言葉はとこしえに離れないと言われているのです。私たちはこの新しい契約を与えられているのです。その恵みを、わたしたちはもう一度深く心に留めなくてはなりません。

2012年12月2日日曜日

「夜明けは近づいている」 

2012年12月2日主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマの信徒への手紙 13章8節〜14節 
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救いは近づいている 
 今日の聖書箇所において、パウロは「夜は更け、日は近づいた」と語っています。12節の言葉です。

 「《夜は》更けた」。パウロはすっかり夜も更け、暗闇に覆われた世界を見ています。それが聖書によるこの世界の描写です。私たちは夜の世界を生きているのです。そのように語ったのは、何もパウロがはじめてではありません。旧約聖書のイザヤ書にも次のような言葉がでてきます。「見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる」(イザヤ60:2)。そのように、旧約の預言者も暗闇に覆われた世界を見ていたのです。

 それは今日の私たちにおいても、ある意味では感覚的に分かります。この世界を真実に見つめる人は、この世界を明るい日差しの燦々と降り注いでいる昼間の世界としては描写しないでしょう。あの預言者と共に「闇は地を覆っている」と言わざるを得ない。「闇」「暗黒」から連想される言葉はいくらでも挙げられます。「不安」「恐れ」「孤独」「憎悪」「怨念」「虚無感」「死の恐怖」「絶望」などなど。確かにその闇がこの世界を覆っているのを私たちは見ているのです。

 ちなみに、先に引用した言葉を語った預言者が実際に目にしていたのは、繁栄を極めたペルシャ帝国なのです。何も不景気な暗い情勢を見て言っているのではないのです。繁栄を覆い尽くしている暗闇を彼は見ていたのです。さらに言うならば、繁栄の中においていよいよ色濃く覆う闇とは何かと言えば、それは人間の罪の暗闇なのです。神に背き、光である神を失った暗黒なのです。先に挙げた「不安」「恐れ」「孤独」「憎悪」云々はすべて、その根から生じた葉であり実に過ぎないのです。聖書は、そのような夜の世界を生きている私たちについて語っているのです。

 また、「夜は《更けた》」という言葉には、時の流れが表現されています。「更けた」と訳されているのは、前に進むことを表現する言葉なのです。実際、私たちは時の流れがそのようなものであることを知っています。決して後戻りすることはない。今年もアドベントを迎えました。教会の暦では新しい年のはじまりです。それは一年がまた過ぎて行ったことを意味します。そして、過ぎて行った一年は絶対に戻ってこない。もうそこには戻れない。そうでしょう。夜の世界に決して後戻りすることのない時が刻まれていく。そこで営まれているのが私たちの人生なのです。

 時の流れは決して後戻りしないという事実は、時として暗闇を一層暗いものとするのでしょう。一年はあっという間に過ぎていく。そうして一つ歳をとります。肉体は朽ちていき、精神も衰えていきます。時の流れに伴って、人は多くのものを失いながら生きて行かねばなりません。そうして最後はこの世の命を失います。行き着くところは墓以外のどこでもない。それはこの世界についても同じです。この世界の有様を真面目に見るならば、その行き着くところはやはり破局と崩壊しか見えてこない。それはちょうど夜が更けていくといよいよ暗さが増していく様子と重なります。

 そのように「夜は更けた」と聖書は語ります。しかし、パウロはただ「夜は更けた」とだけ語りはしません。こう続くのです。「夜は更け、日は近づいた」と。逆戻りすることのない時の流れに、もう一つの事実を見ているのです。朝が刻一刻と近づいている、ということです。

 なぜパウロはこの世界の現実を夜明けに向かう夜として語り得たのでしょうか。それは、この夜の世界のただ中に、キリストの十字架が立てられたことを知っているからです。この世界に罪の贖いの十字架が立てられたのです。この世界は神によって十字架の立てられた世界です。罪の贖いのために御子の肉が裂かれ、血が流された世界です。神が御子によって愛を現された世界です。罪に満ち、悲惨に満ち、破局に向かっているとしか見えない世界でありながら、なおこれは神に愛されている世界なのです。だから彼は確信を持って言うのです。夜は永遠に続くのではない。朝が来る、と。十字架の闇が破られて、キリストの復活の朝が来たように、この夜の世界にも朝が必ず訪れるのです。

 これこそ喜びのおとずれです。福音です。私たちは代々の教会の宣教を通して、この福音を伝えられたのです。私たちは、その神の愛を告げ知らされ、まず私たち自身がその十字架の恵みにあずかったのです。罪の赦しの言葉を聞き、神の愛の言葉を宣言された人生を与えられているのです。私たちは朝に向かって生きる者とされたのです。朝に向いつつある夜ならば、絶望する必要はありません。そこには希望があります。ですからパウロは11節においてこう言っているのです。「今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです」(11節)。 

眠りから覚めるべき時が来ている 
 このことが分かるならば、今の時がどんな時であるかも分かります。聖書は言います。「更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています」(11節)。朝になり日が昇ってから目を覚ますのではないのです。目覚めて朝を待つのです。まだ暗いけれども、もう眠りから覚めるべき時だ、と言うのです。

 眠りから覚めるとは、既に朝が来たように生きるということに他なりません。ですから、パウロは次のように勧めます。12節以下をご覧ください。「夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません」(12‐14節)。

 「夜は更けた。ああ真っ暗だ」としか考えられないならば、「だから、闇の行いに生きようではないか」となるでしょう。希望のない人は希望のない人のようにしか生きられない。しかし、希望を与えられている人が、希望のない人のように生きていてはならないのです。朝が来ることを信じている人が、夜が永遠に続くかのように生きてはならないのです。眠りこけてしまっているならば、今こそ目を覚ますべき時なのです。

 それは、消極的に表現するならば、闇の行いを脱ぎ捨てることである、とパウロは言います。汚い服を脱ぎ捨てるように、闇の行いを脱ぎ捨てることです。その描写は具体的です。パウロは三組の言葉をもってこれを表しています。「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみ」。時は確実に流れていきます。私たちに与えられているのは朝に備える限られた大切な時間です。その時間を、闇の行いによって無駄にしてはならないのです。理性と引き替えにして享楽に身を委ねることに、この貴重な時を費やしてはならないのです。欲望を満たすことを追い求めながらその欲望に振り回され、他者を傷つけ自らを傷つけて生きることに、この貴重な時を費やしてはならないのです。果てしない争いとねたみのために、この大切な時を費やしてはならないのです。キリストの裂かれた肉と流された血潮は、私たちが闇の中にとどまってこの夜を過ごすために与えられたのではありません。朝を待つ者として生きるようにと招かれているのです。朝の日差しに、罪の悪臭漂うぼろぼろの惨めな服は相応しくありません。パウロは「そんなものは脱ぎ捨ててしまいなさい」と言うのです。

 そして、積極的には、「光の武具を身につける」(12節)ことです。そうです、身に着けるのは「武具」なのです。この夜の世界において、既に日が昇っているように光の中を生きるということは、それ自体闘いでもあります。私たちを闇へと引き戻そうとする力が強力に働くからです。再び闇の行いをまとわせようとする力が強力に働くのです。私たちは戦わなくてはなりません。悲しみと悩みに満ちた闇の中に引き戻されてはならないのです。そのためには武具を身につけなくてはなりません。

 光の武具を身につけるとはどういうことでしょうか。テサロニケの信徒への手紙(一)5章7節以下には次のように記されています。「眠る者は夜眠り、酒に酔う者は夜酔います。しかし、わたしたちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう」(1テサロニケ5・7‐8)。

 こうして見ますと、「光の武具を身につける」とは特別な神秘的な体験によって何かを得ることではなさそうです。「信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり」と言われているところで具体的にイメージされているのは、恐らくごく当たり前の信仰生活なのです。何ら特別なことではない。主を礼拝し、福音の言葉を聞き、キリストの裂かれた肉と血にあずかり、福音に基づいて主に従って生きる新しい生活です。

 ですから、そのような「光の武具を身につける」ということが、さらに「主イエス・キリストを身にまといなさい」と言い換えられているのです。「身にまとう」という言葉の意味するところは、「一体となる」ということです。ガラテヤの信徒への手紙にはこう書かれています。「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」(3:27)。そのように、「主イエス・キリストを身にまといなさい」という勧めの言葉は、洗礼において与えられるキリスト者としての生活、キリストとの交わりの生活のことなのです。そのような信仰生活をしっかりと身に着けることなくして、暗闇に引きずり込む力と戦うことはできないのです。

 「更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。」そのように、私たちは今日も「目覚めて待て」との主の呼びかけを聞いています。これは礼拝の度ごとに呼び掛けられている言葉であるとも言えるでしょう。眠りこけてしまっているならば、ここで目を覚ますべきです。朝が来ないかのように生きていたならば、もう一度朝の光の中に生き始めるのです。キリストを身にまとい、キリストとの交わりの生活を回復するのです。こうして私たちは、主の御言葉を聞きながら、一週間一週間を刻みつつ、後戻りできない時の間を夜明けに向かって共に生きていくのです。

2012年11月25日日曜日

「最後の審判の話」

2012年11月25日主日礼拝
日本キリスト教団頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 25章31節〜46節 
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愛の行いの勧め? 
 来週の日曜日からアドベント(待降節)に入ります。教会の一年はアドベントから始まりますので、この日曜日は一年最後の日曜日ということになります。ゆえに、この日は「終末主日」と呼ばれまして、特に「終わり」について考える日とされています。ということで、今日の福音書朗読では「最後の審判の話」が読まれました。

 イエス様がなさったのは、要するに最後には羊と山羊に分けられるという話です。そして、羊には「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい」と語られる。山羊には「呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ」と言われる。そこでどうしても考えざるを得なくなります。わたしは羊になるか、山羊になるか、と。ましてや、「飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた」という、具体的な愛の行いが裁きの基準であるようだと知りますと、たちまち自信が持てなくなります。ある意味では私たちにとってまことに恐ろしい話です。

 もちろん、「恐ろしい話」が必ずしも「悪い話」とは限りません。「恐怖」は時として強烈に善行を促すものとして働きます。「恐ろしい話」には、それなりの教育的な効果があるものです。「地獄」という絵本が子供のしつけに効果があるということでやたらに売れているそうですが、その是非はともかくとして、確かにもともと地獄絵は単に恐怖を与えることが目的ではなく、悪行を抑制し善行を促す教育的な意味があったわけです。

 そう考えますと、今日の箇所も小さき者への愛の行いを促すための物語として読むことができるでしょうし、実際にしばしばそのように読まれてまいりました。最後には王なるキリストの前に立つことになるのだ。私たちは最終的に裁き主であるキリストの前において羊と山羊に分けられることになる。そこで山羊の側になりたくなかったら、生きている間に、自分が為しえる間に、実際に行動をもって「最も小さい者」に愛を表さなくてはならない、というようにです。

 しかし、この「恐ろしい話」を読んで、最後の審判において山羊の側にならないために、地獄の火を逃れて神の国に入るために、あたかも保険をかけるかのように、善行や隣人愛の行為を一生懸命に積み立てるとするならば、それはそれで何か変だと思いませんか。確かに、悪いことをするよりは、善いことをする方が好ましいに違いないのですが、それでも動機と目的がただ「山羊の側にならないため」ということであるならば、何かがおかしい。それではまるで自分が救われるために他の人を踏み台にするようなものではありませんか。それはもしかしたら愛の名を借りた究極のエゴイズムと言えなくもない。イエス様がそんな話をしているとはどうも思えません。

 そもそも、そのような善行や隣人愛ですと、イエス様がなさった話とは全く違った結果になってしまうのです。ちょっと想像してみてください。私たちがイエス様の話を聞いてこう考えたとしましょう。「そうか、最も小さい者にしたことはイエス様に対してしたことになるんだな。今、この人にしていることも、イエス様にしていることになるんだ。これまで随分《イエス様に対して》善いことをしてきたはずだ。もう既に相当ポイントが貯まっているに違いない。このままいけば確実に羊の側に違いない。」そう思いながら、そのように人生を送って、やがて王なるキリストの前に立ったとしたらどうでしょう。ここに出て来る羊たちとはかなり違ったことを言うのではありませんか。

 この話に出て来る羊たちはこう言っているのです。「主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか」(37‐39節)。いいえ、あなたのためになど、何一つしておりません、と彼らは言っているのです。そう言って驚いているのです。

 ポイントが貯まっているはずだと思っている人は、そうは言いませんでしょう。「最も小さい者の一人にしたのは、あなたにしてあげたことになるんですよね!そうであるからこそ、わたしはあなたのためにかなり働いたし、あなたに対する愛の業に励んできたのです。」そう言うのではありませんか。そのように、山羊の側にならずに羊の側になるために愛の行いに励むとしますと、結果的にはここに出てくる羊たちと同じにはならない。似ても似つかぬ者となってしまうのです。やはり何かがおかしい。 

傍らに立ってくださるイエス様 
 そこで私たちはこのたとえ話のどこに身を置くべきなのかを改めて考えざるを得なくなります。たとえ話はどこに身を置くかで全然違った話として聞こえてくるのです。このようなたとえ話を読むと、どうしても「最も小さな者の一人」に対して何を為すべきか、というように、「何かをしてあげる側」に身を置いてこの話を読んでしまいやすいでしょう。しかし、それが唯一の立ち位置ではないのです。

 私たちは人生において常に「何かをしてあげる側」にあるとは限らないわけでしょう。「何かをしてもらう側」に立つことだってあるわけです。確かに私たちは「飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をする」側に立つこともあるでしょうが、もう一方で「お世話をされる」側に身を置かざるを得ない時もあるのではありませんか。食べさせてもらったり、癒してもらったり、お見舞いしてもらったり、助けてもらったり。自分では何一つ為しえない状況で、苦しんで悩んで、他の人から助けてもらうしかなくて、本当に自分の無力さや小ささを痛感せざるを得ない状況に置かれることだってあるのでしょう。

 確かに信仰者として他の人に対して何を行うかということは大きな課題です。しかし、それと同じくらい大きな課題は、まさに「最も小さい者」となった時、あるいはそのようにされた時、いったいそこで何を考えるのか、ということなのです。そのように「最も小さい者の一人」の場所に立ってこの話を聞くことは必要なことなのです 

 事実、イエス様は別の箇所で弟子たちのことを「小さい者」と呼んでいるのです。同じ福音書の10章において、イエス様はこのように言っておられるのです。「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」(10:42)。実際、初期の教会の構成していた人たちの多くは奴隷の身分の人たちであったり、この世的には極めて低い立場にあった人たちであり、人々から卑しめられてきた人たちであったのです。また伝道者たちも、まさに物乞いのような有り様で、行くところ行くところで人々のお世話になりながら伝道を続けていたのです。ですから、イエス様の弟子たちにせよ、後のキリスト者にせよ、ここで語られている「最も小さな者の一人」は、決して誰かどこかの他の人ではなかったのです。どうしてもこの「最も小さな者の一人」に身を置いて聞かざるを得なかったのです。

 そのように、私たちもまずはこの「最も小さな者の一人」のところに身を置いて、この福音の言葉を聞いたら良いのです。人生の様々な場面で、弱さを覚えたり、誰かに助けてもらったり、誰かに世話にならなくてはならない私たち。どんなに強がってみても、実際にはしばしば捕らわの身のように我が身一つ自由にできない私たち。そのような私たち自身をそのまま持ってきて、イエス様の言葉を聞くのです。するとそこでイエス様がこう言ってくださるのです。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と。

 どんなに小さな者であろうが、無力な者であろうが、イエス様は「これはわたしの兄弟だ」と言ってくださる。そのようにして私たちの傍らに立ってくださるのです。そして、私たちが助けを受けるならば、イエス様御自身が受けたかのように感じてくださる。私たちが、誰かの愛情に接して心温まる喜びを感じたならば、イエス様がその愛の行為を受けたかのように共に喜んでくださるのです。

 またもう一方で、私たちが不当な扱いを受けるなら、私たちが蔑ろにされたり、軽んじられたりするならば、イエス様御自身が蔑ろにされたり軽んじられたりしたかのように怒ってくださるのです。「永遠の火に入れ!」とは実に激しい言葉ではありませんか。しかし、それほどにイエス様は私たちのことを思ってくださる。そのように、私たちはイエス様の兄弟であり、イエス様は私たちと御自分とをいわば同一視してくださるのです。それがここでまず語られていることなのです。

 そのように、まずは私たち自身の傍らに立って、「これはわたしの兄弟だ。わたしの兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と言ってくださるイエス様を知ることです。私たちをどれほど大切に思っていてくださるかを思うことです。最後の審判においてまで、そう言ってくださるほどに、大切に思われているのです。

 そのように私たちの傍らに立ってくださるイエス様が見えてきますと、もう一つのことが見えてくるはずなのです。他の人の傍らに立っているイエス様です。イエス様が私たちを大切に思ってくださったように、主は他の人たち、私たちの周りの人たち、特に助けを必要としていたり愛されることを必要としている人たちについてもこう言われるのです。「これはわたしの兄弟なのだよ。わたしの兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのだよ」と。

 このたとえ話をしておられるイエス様が望んでおられることは、そこから始まっていくのです。地獄の火を免れるための保険でもない、神の国に入るために一生懸命に貯えたポイントでもない、いかなる形においても自分自身に栄光を帰さない、もしかしたら自分の記憶にさえも残らない愛の行いが、小さいながらもそこから始まるのです。そして、それはたとえ小さなことであっても、決して主の目に軽んじられることはないのです。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と主は言われるのですから。そのことを思いながら生きて行ってこそ、はじめて私たちもまた、ここに出て来る羊たちと同じようになれるのでしょう。やがて王の前で、私たちはその時に驚きの声を上げることになるのでしょう。「え?いつわたしたちはそんなことをしましたか?」と。それは何と喜ばしい驚きであることでしょう。

2012年11月18日日曜日

「差し出された神の手を握る」

2012年11月18日主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒言行録 3章11節〜26節
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体の癒し以上のこと 
 エルサレムの神殿に「ソロモンの回廊」と呼ばれる場所がありました。そこにいたペトロとヨハネのもとに大勢の民衆が集まってきた。そこでペトロは彼らにイエス・キリストを宣べ伝えた。今日読まれたのは、そのような話です。

 なぜ民衆が集まってきたのか。ひとりの人が奇跡的に癒されたからです。事の顛末は3章前半に書かれています。生まれながら足の不自由だった男が奇跡的に癒された。そのようなことがありますと、人々は驚いて集まってくるものです。確かに驚くべきことが起こりました。しかし、彼に起こったこと本質は単に肉体の癒し以上のことでした。彼は「躍り上がって立ち、歩き出した。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った」(3:8)と書かれているのです。

 癒されて嬉しかった。それはそうでしょう。しかし、体を癒されて喜んだ人が、必ずしも神を賛美する人になるとは限りません。神を礼拝するために神殿へと向かうとは限りません。彼は神を賛美したのです。神を礼拝するために神殿に入っていったのです。それは肉体の癒し以上のことなのです。人生の方向が変わったのです。彼は神に向いて、神と共に生きる人となったのです。

 考えてみれば、足が癒されることは必ずしも幸せな生活を約束するものではありません。今まで物乞いをして生きてきた人です。仕事はあるのでしょうか。足が癒されたら癒されたで、恐らくはその先に数多くの困難が待っているに違いない。体が癒された喜びは次に困難に出会った時に消えてしまうかもしれません。しかし、人生の方向が変わることは、神に向かって生き始めることは、永続的な意味を持つのです。さらに言うならば、それは死を越えて永遠の救いに関わる意味を持つことになるのです。

 ですから、この話はただ一人の男の足が癒されたという話で終わらないのです。その先にはペトロが語るべきことがある。人々が聞かなくてはならない言葉があるのです。ここにいる私たちもまた聞かなくてはならない言葉があるのです。それが今日の聖書箇所において語られていることなのです。

 外見的には、その癒しはペトロによって起こりました。しかし、ペトロは自分がただキリストの恵みの通路に過ぎないことをよく知っていました。ですから、集まって来た人々に言うのです。「イスラエルの人たち、なぜこのことに驚くのですか。また、わたしたちがまるで自分の力や信心によって、この人を歩かせたかのように、なぜ、わたしたちを見つめるのですか」(12節)。ペトロは自分に注目している人々の目を、キリストへと向けるのです。人間に目を向け、人間に求めている限り、本当の救いは来ないからです。重要なのは、キリストとの関係なのです。ですから、ペトロは、この癒された男についても次のように語ります。「あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです」(16節)。

 さて、ここで一方において「イエスの名が強くした」と言い、他方において「イエスによる信仰が…いやしたのです」と言っていることに注意してください。「イエスの名が強くした」というのは、「イエスが強くした。イエスがいやした」という意味です。事をなさるのはあくまでもイエス様御自身なのです。しかし、それだけでは完結しないのです。そこにはまた「イエスによる信仰が」いやしたのだ、という事実がある。イエス様がなさることを、人間は「信仰」によって受け取らなくてはならない、ということです。

 ペトロとこの男の間に起こったことは、ある意味で象徴的なことでした。ペトロは、彼に、「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と命じたのです。そして、命じただけでなくペトロはこの男に向かって手を伸ばしたのです。「右手を取って彼を立ち上がらせた」と書かれているのです。手を伸ばして右手を取った。しかし、この男の手は動くわけですからペトロの手を払いのけることもできるわけです。払いのけても不思議ではない状況であったとも言える。そもそも彼は施しを期待していたのですから。お金を期待していたのですから。その意味では期待はずれです。しかも、「立ち上がり、歩きなさい」とは何事ですか。足が悪くて立ち上がれないから座っていたのでしょう。

 しかし、彼はペトロの言葉を退けなかったのです。伸ばされた手を払いのけなかった。ペトロが彼の右手を取って立ち上がらせようとしたとき、彼はペトロの助けを受けて、イエスの名を信じて、神の御業を信仰によって受け取ったのです。その意味でペトロが彼の手を取って起こした姿は象徴的な姿であったと言えます。そして、彼に起こったことはまた全ての人にも起こり得ることなのです。先にも言いましたように、彼に起こったのは、体の癒し以上のことなのです。人生の方向転換なのです。神と共に生きる人、神との交わりに生きる人となることへの方向転換です。ですので、ペトロは13節以下の説教を語り始めたのです。 

神の手を握る 
 語り始めの言葉はこうでした。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神は、その僕イエスに栄光をお与えになりました。ところが、あなたがたはこのイエスを引き渡し、ピラトが釈放しようと決めていたのに、その面前でこの方を拒みました。聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦すように要求したのです。あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です」(13‐15節)。

 ここで繰り返されているのは「拒んだ」という言葉です。そして、最終的には「殺した」という言葉が出て来る。これは究極的な拒絶です。もはや自分に決して関わることがないように抹殺してしまうわけですから。そのようにあなたがたは拒んだのだ、とペトロは言います。誰を。「命の導き手である方」を。

 「命への導き手」、それは他の翻訳では「いのちの君」「命の創始者」などと訳されている豊かな内容を持つ言葉です。真の命をもたらしてくださる御方ということです。真の命とは何でしょう。わたしは生きているのか。あなたは生きているのか。確かに生きているから、礼拝堂に集まっているのでしょう。しかし、本当に「生きている」のか。いや、正確に言うならば「生きている」のではなく、「死につつある」というのが正しいのでしょう。皆間違いなく確実に死に向かっているのですから。さらに言うならば、聖書にはこんな言葉も出て来る。「わたしはあなたの行いを知っている。あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる」(黙示録3:1)。何かを行っているのだから「生きている」のでしょう。しかし、その行いを知っている神から見るならば、「あなたは死んでいる」と言うのです。 そのように、真に命があるということは、単に肉体的に生きているということではない。また、生き生きと生きているということですらないのです。

 では何なのか。命とは交わりなのです。命の源であり、命そのものである神との交わりなのです。イエス様は、神の愛を示し、神との豊かな交わりの中にある真の命、永遠の命を見せてくださった方でした。そして、神との愛の交わりにある命へと導くために、イエス様は来られたのです。いわばイエス・キリストは、神の伸ばされた手なのです。私たち人間を御自身との交わりへと招くために伸ばされた手なのです。生きているとは名ばかりで実は死んでいる者を、また生きているのではなくて実際には死につつある者を、起き上がらせるための手なのです。真の命によって起き上がらせるために伸ばされた神の手なのです。

 しかし、あなたがたはその手を払いのけてしまったのだ、とペトロは言っているのです。いやもう二度とこちらに向かって手を伸ばせないように、十字架の上に伸ばして釘を打ち付けてしまったのです。「あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいました」。それは究極の拒絶です。

 ならばもう終わりでしょう。もうその先はないでしょう。それが当然の帰結だと思うのです。しかし、神はそうなさらなかった。人間が終わりにしても、神は終わりになさらないのです。ペトロはこう続けるのです。「あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です」(15節)。

 神はキリストを十字架にかけた人々を見捨てられませんでした。それはすなわち、神はこの世界を見捨てなかったということです。罪深く頑なで傲慢で、神の恵みの御手さえ払いのけてしまうような私たち人間を神は見捨てなかったということです。神は、拒まれ殺されたイエス・キリストを復活させ、永遠に命の導き手なる方として、永遠の主として立ててくださったのです。神はなおも私たちを命へと招き、私たちに御手を伸ばしていてくださるのです。

 それゆえにペトロは彼らにこう語りかけます。「ところで、兄弟たち、あなたがたがあんなことをしてしまったのは、指導者たちと同様に無知のためであったと、わたしには分かっています。しかし、神はすべての預言者の口を通して予告しておられたメシアの苦しみを、このようにして実現なさったのです。だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい」(17‐19節)。

 なおも御手を伸ばしてくださったということは、そこに神の赦しがあることを意味します。それは「メシアの苦しみを、このようにして実現なさった」という言葉からもわかります。それは罪の贖いのための苦しみです。それは神が実現なさったのです。そのようにして、神が罪を消し去ってくださる。これは「拭い去る」という意味の言葉でもあります。ヨハネの黙示録には、神が私たちの「目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる」(黙示録21:4)と書かれていますが、そこにあるのは同じ言葉です。神がぬぐい取ってくださったら、もう永遠に涙はないでしょう。そのように、神の恵みを拒絶し続けてきた私たちの罪を完全にぬぐいとってくださるのです。

 そのために「悔い改めて立ち帰りなさい。」とペトロは言います。「悔い改めて立ち帰る」とはどういうことでしょう。命への導き手を拒絶し殺してしまった人にとって、悔い改めて立ち帰るとはどういうことでしょう。神の御手を払いのけて、十字架に釘付けしてしまった人にとって、悔い改めて立ち帰るとはどういうことでしょう。それは命の導き手なる御方を信じて受け入れるということでしょう。神が再び伸ばしてくださったその手を、今度はしっかりと握って、「立ち上がり、歩きなさい」という言葉を聞いた者として、立ち上がらせていただき、歩き出させていただくことなのでしょう。エミール・ブルンナーという神学者は、「信仰とはイエス・キリストにおいて差し出された神の手を握ることだ」と表現しましたが、まさにその信仰こそがここで求められていることなのです。私たちは信仰によって、罪を赦され、神との交わりに入れられるのです。そこにおいて、あの生まれながら足の不自由であった男に起こったことが、私たちにも起こるのです。私たちは神をほめたたえ、神を礼拝し、真に命あるものとして生きるのです。

2012年11月11日日曜日

「備えられている祝福にあずかりましょう」

2012年11月11日主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ガラテヤの信徒への手紙 3章1節〜14節 
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キリストは呪いとなって
  今日は子どもたちと共に「子ども祝福礼拝」をお捧げしています。先ほど、私たちは本日与えられているガラテヤの信徒への手紙の一部を読み、子どもたち一人 一人のために祝福を祈りました。今日の聖書箇所には確かに「祝福」という言葉が繰り返し出てまいります。しかし、先ほど朗読された時に気づかれたと思いま すが、そこにはまた「呪い」という言葉も繰り返されているのです。それはその対極にある「呪い」について語ることなくして、「祝福」については語り得ない ということなのでしょう。
 「呪い」ということについては、次のように書かれていました。13節を御覧下さい。「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです」(13節)。

 ご存じのように、キリストは毒殺されたのではなく、切り殺されたのでもなく、「十字架」にかけられて死にました。この手紙を書いたパウロは、そこに特別な 意味を見ています。彼は「木にかけられた者は皆呪われている」という旧約聖書の言葉を引用します。十字架にかけられたキリストは、確かに肉体的な苦痛を味 わわれたことでしょう。精神的な苦痛も受けられたことでしょう。しかし、木にかけられた、十字架にかけられたキリストの受けられた苦しみの本質はは「呪 い」にあったのだ言うのです。 

 「キリストは、わたしたちのために呪いとなって」と書かれています。「呪いとなって」というのは「呪われた者となって」ということです。呪われた者となる とは、言い換えるならば神から断罪されて見捨てられるということです。完全に見捨てられたということです。それがキリストの苦しみだったのです。それゆえ に、キリストは十字架の上で叫ばれたのです。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15:34)。そのイエス様の叫びは、肉 体的精神的苦痛の中で信仰が弱まってしまったという話ではないのです。キリストは実際に呪われたのです。断罪されたのです。捨てられたのです。愛する天の 父から捨てられたのです。そこにこそキリストの最大の苦しみがあったのです。 

 人は神に見捨てられていないこと、神に愛されていることさえ信じることができれば、苦難に耐えていくことができるのです。この手紙を書いているパウロもま た、そのような人のひとりです。多くの人がそのようにして苦難を耐え忍んできたのです。それは神に見捨てられているとは思っていないからです。そこにはな おも神の愛と希望の光が差し込んでいるのです。しかし、逆に言えば、この神から見捨てられてしまうということは、もはや一筋の光も差し込むことのない、完全な絶望の暗闇に置かれるということを意味するのでしょう。キリストが「呪いとなってくださった」とは、そういうことなのです。 

律法の呪いから贖い出してくださった 
 それは何のためですか。私たちを「呪いから贖い出す」ためだと聖書は教えているのです。「呪いから贖い出す」とは「呪いから救い出す」という意味です。私たちがもはや呪いを受けないためだ、というのです。これは何を意味しますか。キリストが呪いを受けてくださらなかったら、私たちが呪いを受けていたということです。キリストが呪われた者となってくださったのだけれど、本来、呪われた者となるべきであったのは、神から見捨てられて然るべきであったのは、私たちだったのだということです。

 どう思われますか。もしかしたら多くの人は、このような箇所を読んで、「いや、私は神から呪われたり、見捨てられたりするほど悪い人間ではない」と思うかもしれません。真面目に生きてきた人ならなおさらそう思うことでしょう。しかし、本当にそうなのでしょうか。

 例えば、身近な人間関係を考えてみてください。私たちの考えること、語っていること、行なっていることの大部分は人の目から隠されています。もし、仮にある人の前ですべてが暴かれたとしたら、すべてがさらけ出されたら、その人はなおあなたを愛するでしょうか。すべてが明らかになったとき、なお人はあなたを受け入れるでしょうか。むしろ、あいそをつかされ、軽蔑され、見捨てられたとしても不思議ではないのではありませんか。

 もっとも人と人との間であるならば、もしかしたら「お互い様でしょう」ということにもなるかもしれません。しかし、神と人との間においては、そうはならないでしょう。聖なる神の前にすべてが明らかにされるならどうでしょう。いや、既に神に御前においては全てが明らかなのです。しかも、そこで問題となるのは、人と比較して良いか悪いかということではないのです。私たちは絶対者の前に立った時、絶対的な基準で判断されるのです。ですからあえて「律法の呪い」と言われているのです。問題となっているのは神の律法なのです。私たちの道徳感ではありません。人からどう見られるかと言うことではないのです。神がどう見られるかということが問題となるのです。ならば、そのような神の前において、「私は呪いではなく祝福を受けるにふさわしい者です」と言える人などひとりもいないことは明らかでしょう。そう考えますと、確かに私たちは、本来、神から呪われて、永遠に見捨てられても仕方のない者であると言えるでしょう。

 しかし、神はそのような私たちを見捨てまいとされたのです。私たちのすべてをご存じの上で、私たちがどんな人間かをご存じの上で、また、この世がどれだけ罪に汚れているかをご存じの上で、この世をなお愛そうとされたのです。私たちをそれでもなお愛し、赦し、受け入れようとされたのです。それゆえに、裁かれなくてはならないこの世の罪、私たちの罪をすべてキリストの上に置かれ、キリストを裁かれ、キリストを捨てられたのです。キリストが、わたしたちのために呪いとなってくださった、呪われた者となってくださったのです。私たちが呪いを受けないためです。見捨てられないためです。

 「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました」。ここに救いがあるのです。キリストが呪いとなってくださったので、私たちが受けるべき呪いはもう残っていないのです。私たちが受けるべきものは呪いではなく、祝福しか残っていない。祝福された者として、神に愛されている者として、神と共に生きることだけです。何ものも私たちを神の愛から引き離すことはできないのです。他の手紙に書かれているように、もはや死でさえも神の愛から私たちを引き離すことはできないのです。どんなことがあっても神の愛を信じることが許されているのです。

ただ信仰によって 
 このように、十字架にかけられたキリストをパウロはガラテヤの信徒たちにも語ってきたのです。1節後半において、「目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか」と言っているとおりです。そのことを思い起こさせようとしているのです。なぜなら、ガラテヤの人たちは、それを忘れかけていたからです。十字架にかけられたキリストにもはや目を向けてはいなかったからです。

 ただキリストの十字架のゆえに、本来呪われるべき罪人が、罪を赦され、祝福を受けて今あるを得ていることを忘れて、自らの行ないを誇り、自らの力に頼って救われようとしていたのがこのガラテヤの信徒たちだったのです。彼らは十字架にかかられたキリストを信じてキリスト者となったはずでした。しかし、今や十字架無しで祝福を受けようとしていたのです。

 それは私たちにも起こり得ることです。キリストの十字架から目をそらしてしまう時、その人の信じるキリスト教は十字架抜きの道徳教になってしまいます。十字架抜きのクリスチャンは、熱心になればなるほどますます自分を誇るようになります。そして、その熱心さは、結果として世にも恐るべき傲慢な人間を作り上げるのです。

 今日の朗読は「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか」という嘆きの言葉から始まっていました。そうです、この世の言葉によって惑わされてはなりません。救いは私たちの行いと引き替えに獲得するのではないのです。祝福を受けるのは、私たちが何かを行うことによってではないのです。求められているのは信仰なのです。

 3章6節以下をご覧ください。「それは、『アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた』と言われているとおりです。だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、『あなたのゆえに異邦人は皆祝福される』という福音をアブラハムに予告しました。それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています」(3:6‐9)

 ここで言われている「信仰」とは何でしょうか。聖書は「信仰」について抽象的な定義付をしません。そうではなく、実際の信仰を物語り、具体的に信仰に生きた人を私たちに示すのです。そのひとりがアブラハムです。では、アブラハムはどのような意味で「信じた」のでしょうか。

 パウロが引用したのは創世記15:6です。本日の第一朗読において読まれた箇所です。創世記15章を見ますと彼には子供がいないことが分かります。彼は既に年老いておりました。その彼に神様は語られるのです。15章の4節からお読みします。「見よ、主の言葉があった。『その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。』主は彼を外に連れ出して言われた。『天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。』そして言われた。『あなたの子孫はこのようになる』」。これに続いて、先ほどの言葉、『アブラム(後のアブラハム)は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。』が来るのです。アブラハムは、ある意味では到底信じられないような神の言葉を受け入れたのでした。ただ神の約束を信じ、その約束に自分自身をゆだねたのです。自分の全存在をその約束にゆだねたのです。それが「信じる」ということの内容です。

 今も神様は、私たちに対してキリストの十字架を通して語りかけておられます。キリストが私たちの受くべき呪いをすべて受けて下さったということを語りかけておられるのです。ここに私たちの罪の赦しと命と祝福があることを、キリストの十字架によって示しておられるのです。もはや私たちは呪われた者として生きる必要がなく、決して絶望する必要がなく、どんなときにも神の愛の内にある者として生きることができると語られるのです。それは信じ難い約束かもしれません。アブラハムの子孫が星のごとくなるというのと同じくらい、いや、それ以上に信じ難いことかもしれません。しかし、十字架を通して語られた神に徹底して信頼することが信仰なのです。その約束に私たちの全存在をゆだねること、それが信仰なのです。それがキリストを信じるということなのです。そして、この信仰によって、私たちは祝福の内に生きるのです。

2012年11月4日日曜日

「わたしは道であり、真理であり、命である」 

2012年11月4日主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 14章1節〜6節
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 今日は「聖徒の日」です。天に召された方々を記念して礼拝をお捧げしています。私たちが記念しているのは、既に世を去られた方々です。しかし、この日、私たちが考えるべきことは「死について」ではありません。「命について」です。今日与えられた聖書の言葉は、命について語っている御言葉です。特に心に留めたいのは、ヨハネによる福音書14章6節です。今日の説教タイトルともなっています。「わたしは道であり、真理であり、命である」。ここで私たちは、ここでまことに驚くべき言葉を耳にしています。この御方は、ただ道を示されるだけではありません。「わたしが道なのである」と言われるのです。この御方は、ただ真理を語られるだけではありません。「わたしが真理なのである」と言われるのです。この御方は、ただ命へと導いてくださるだけではありません。「わたしが命なのである」と言われるのです。

父の家には住む所がたくさんある
 この言葉が語られましたのは、いわゆる「最後の晩餐」と呼ばれる場面です。イエス様は、御自分に迫っている恐るべき事態をよくご存じでした。まもなく捕らえられ、裁かれ、十字架にかけられ、殺されるであろうことをご存じであられました。主は確かに受難の道を、十字架の死に至る道を歩んでおられたのです。

 しかし、イエス様の御目は、ただ苦難と十字架だけに向けられていたのではありませんでした。主の眼差しは、十字架のその向こうに、向けられていたのです。先ほどお読みした14章1節以下を御覧ください。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか」(1‐2節)。主は十字架の死の向うに、父の家を見ているのです。主は御自分が父のもとに行くのだ、ということをはっきりと意識しておられたのです。

 さらにこう言われました。「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」(1‐3節)。そのように、父のもとに行くのはイエス様だけではないのです。弟子たちもまた、父のみもとに迎えられるのです。イエス様によって迎えられ、主のおられるところに弟子たちも共にいることになる、と語られているのです。

 イエス様は、弟子たちが行き着くところ、私たちが行き着くべきところを、明確に告げてくださいました。最終的に私たちが行き着くべきところ、それは《父の家》です。父なる神のみもとなのです。このことを意識するかしないかで、私たちの人生は変わります。どこに向かって生きるのかということが、その人の生き方を決定するのです。

 帰るべきところが父のみもとであり、父の家であるということは、私たちの人生を最終的に評価するのは、父なる神であるということです。このことは特にこの弟子たちに語られねばなりませんでした。というのも、弟子たちはこの先、困難と迫害の中を生きていかなくてはならなかったからです。すなわち、人々から憎まれて、何も成し遂げないままに、まるで無駄死にのような仕方で死んでいかなくてはならないことも、あり得るということなのです。そして実際、そのようなことは起こったのです。教会の歴史の中において繰り返し起こったのです。迫害の中で誰からも顧みられることなく、記憶されることなく閉ざされた人生を、いったい誰が評価するのでしょうか。それは父なる神なのだ、というのです。弟子たちは、そのことを知らなくてはならなかったのです。

 それは迫害の中にあるわけではない、私たちにおいても同じです。私たちの働きは、未完成に終わるかもしれません。途中で行き詰まり、あるいは不測の事態に翻弄されることがあるかもしれません。身を粉にして取り組んだことが、必ずしも人から評価されるとは限りません。まったく気にも留められないかもしれません。ありったけの愛を注ぎ込んでも、最後まで拒否されて終わるかもしれません。ただ無駄に失われていったとしか思えない年月があるかもしれません。しかし、それはそれで良いのです。そんなことで人生の意味は決まらないからです。私たちの一生を判断するのは、私たち自身ではないからです。他の誰かもありません。私たちは父のみもとに行くのです。父なる神が私たちを迎えてくださるのです。父が見てくださることこそ、父なる神が評価してくださることこそが、最終的に唯一意味を持つのです。

わたしは道である
 そのように、行くべきところが明確に告げられているということは、実に幸いなことです。しかし、ここで一つの問いが、私たちの心の中に頭をもたげてくるかもしれません。「キリストが父のみもとに帰ったからと言って、そのキリストと同じところに私たちもまた帰ることができると、本当に言えるのだろうか。父なる神が、私たちを受け入れ、迎え入れてくださるということを、本当に信じて良いのだろうか。」――もしそのような問いを持つ人がいるならば、その問いは実に健全な、正しい問いであると思います。なぜなら、事実、私たちとキリストとは異なるからです。

 キリストは父なる神から遣わされた御方として、父の御心だけを行いました。キリストには罪がありませんでした。そのようなキリストにとって、使命を終えて父のみもとに帰って行くということはことは、自明のことでした。父のみもとに場所があることは至極当然のことでした。ですから、十字架において死ぬことは、父なる神のみもとに移されることに他ならなかったのです。

 しかし、私たちは違います。私たちは決してキリストのように罪のない者ではありません。神に背いて、背いて、また背いて。そのようなことを繰り返してきた自分の人生をひっさげて、「神様、あなたのもとに私の場所があることは当然です」と言えるでしょうか。「あなたが私を迎えてくださることは当然です」と本当に言えるでしょうか。言えないだろうと思うのです。父なる神のもとに私たちの行き着くべき場所がある。それはどう考えても、本来あり得ないことなのです。

 しかし、皆さん、2節を御覧ください。そうであるからこそ、イエス様はわざわざ「あなたがたのために場所を用意しに行く」(2節)と言われたのです。「場所を用意しに行く」のです。つまり、それまでは用意されていない、ということです。はじめから私たちの場所があるのではない、ということです。父なる神のみもとに、私たちの場所があるとするならば、それはイエス様が用意してくださったから場所があるのであって、私たちが何かをしたからではないのです。イエス様がしてくださったことによるのです。

 キリストは場所を用意しに行くと言われました。そして、どうされましたか。主は十字架にかかって死なれたのです。言い換えるならば、キリストは、十字架にかかられ、自ら血を流して私たちの罪を贖うことによって、場所を用意してくださったのです。そのようにして、罪人である私たちが父に迎えられるようにしてくださったのです。

 いや、イエス様はただ場所を用意してくださっただけではありません。主は言われたのです。「わたしは道である」と。その道は父のみもとに行くための道です。キリストは十字架にかかり、罪を贖うことによって、私たちの通るべき道ともなってくださったのです。私たちは、イエス・キリストによる罪の贖いという道を通って、父なる神のみもとにいくしかないのです。それゆえ、イエス様は言われたのです。「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と。

 ヘブライ語の「道」という言葉は、もともと「踏みつける」という言葉に由来します。道というのは、人が踏みつけて通るものです。「道を通る」とはそういうことです。イエス様は、私たちが踏みつけて通るための道となってくださいました。私たちはそのままでは父のみもとに行けないから、父のみもとに行けるようにと、私たちが踏みつけて通るための道になってくださったのです。イエス様が十字架にかかって、私たちの罪を贖ってくださったとはそういうことなのです。イエス様が、「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と言われたのは、「だから、わたしを通って父のもとに行きなさい。わたしがあなたの罪の代償として苦しみを背負うから、わたしを踏みつけて通って父のもとに行きなさい」ということなのです

 わたしは真理であり命である 
 そのように、イエス・キリストは私たちに道を示してくださったのではなくて、キリスト自らが道となってくださいました。それこそが私たちの知るべき「真理」なのです。その「真理」そのものとして、イエス様は来られたのです。主は言われるのです。「わたしが真理である」と。

 ですから、真理を知るということは、単に「キリストについて知る」ということではありません。「キリストを知る」ということです。《キリストについて知る》ということと、《キリストを知る》ということは、異なるのです。《キリストを知る》ということは単なる知識ではありません。人格的な関係であり、人格的な交わりです。言い換えるならば、それは「信ずる」ことであり、「愛する」ことであり、「礼拝する」ことです。

 ですから、私たちは、週ごとに集まって、聖書の勉強会をするのではなく、キリスト教の勉強会をするのでもなく、礼拝をするのです。単にキリストについて語ったり、聞いたりするのではなく、祈り、讃美をするのです。単にキリストについての信仰箇条を信じるのではなく、キリストを信じるのです。私のために、あなたのために、命を投げ出して、父へと至る道となってくださった、そのキリストというお方を信じるのです。

 そのキリストが「わたしは命である」と言われたのです。ならばここで言う「命」とは単なる活力や生命力のことではありません。活き活きと生命力に満ち溢れて生きられることは素晴らしいことです。しかし、それが最終的に重要なことではありません。なぜなら、活力に溢れている人もまた死ぬからです。死はその人をも確実に呑み込んでいくのです。人間はいかなる状態にあったとしても、どんなに元気な人であっても、《死につつある》存在であることに変わりはありません。ですから、本当の意味で「命」が語られるためには、死が克服されていなくてはならないのです。

 イエス様は、「わたしは命である」と言われました。キリストにこそ、死の完全なる克服があります。キリストがおられるところにおいて、もはや死は力を持ち得ないのです。キリストとの交わりがあるならば、もはや何も恐れる必要はありません。なぜなら、キリストは父のみもとに場所を用意してくださる方であり、私たちが父のみもとへ行くための「道」そのものとなってくださったお方だからです。だからこそ主は「命」なのです。主は言われました。「わたしは道であり、真理であり、命である」と。

2012年10月28日日曜日

「知恵の声に耳を傾けて生きる」

2012年10月28日主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書  箴言 8章22節〜31節
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天地創造に関わっていた神の知恵
 今日の礼拝においては箴言の一部が読まれました。そこには「わたし」という言葉が繰り返されていました。その「わたし」とは誰か。12節に「わたしは知恵」と書かれています。今日朗読されたのは「知恵」が語っている聖書箇所なのです。ということで、今日の説教題は「知恵の声に耳を傾けて生きる」となっております。

 ここで語っている「知恵」とは何者なのでしょう。27節以下にこんなことが書かれていました。「わたしはそこにいた、主が天をその位置に備え、深淵の面に輪を描いて境界とされたとき、主が上から雲に力をもたせ、深淵の源に勢いを与えられたとき、この原始の海に境界を定め、水が岸を越えないようにし、大地の基を定められたとき」(27‐29節)。ここに語られているのは要するに神の天地創造の話なのです。天地創造において、「わたしはそこにいた」と言っているのです。「そこにいた」というのは、もちろん「ぼーっと眺めていた」という意味ではなくて、「関わっていた」という意味です。天地創造に関わっていたというのですから、この「知恵」とは天地を造られた神の「知恵」です。天地創造に神の知恵が関わっていたということです。

 この世界の成り立ちに神の知恵が関わっているという認識は、この世界を見つめる人々に共通した、一番素朴な認識であると言えます。そのような他の例は、例えば詩編104編などに見られます。そこではこう歌われているのです。「主よ、御業はいかにおびただしいことか。あなたはすべてを知恵によって成し遂げられた。地はお造りになったものに満ちている」(詩104:24)。この自然界にはまさに知恵が働いたとしか言いようがない秩序がある。信仰の目を持って見るならば、その神の知恵に圧倒されざるを得ないのです。そのように天地創造に関わった「知恵」がここで語っているのです。そのことをまず心に留めてください。

同じ神に造られた人間として
 さてここで、今日お読みした「箴言」の言葉を伝えてきたイスラエルの民のことを考えてみましょう。
 イスラエルの民は、常に異なる宗教と文化を持つ諸国民との関わりの中に置かれていました。ソロモン王の時代、周辺諸国との貿易は盛んに行われるようになり、急速に国際化が進みました。ソロモン王の後、王国は分裂し、やがて北王国はアッシリアによって滅ぼされ、南王国はバビロニアによって滅ぼされます。生き残ったイスラエルの民は、固有の国土を失い、異教の大国の支配下に置かれました。こうして、イスラエルの民は、バビロニア、ペルシャ、ギリシャの支配のもとに生き続けたのです。そのように諸国民との関わり、あるいは諸国民の支配下に置かれている民として、イスラエルがそのアイデンティティを保ち続けることは何よりも重要なことでありました。彼らは自分たちが何者であるかを、常に心に留めねばならなかったのです。

 それゆえに彼らは自分たちの父祖アブラハム、イサク、ヤコブの話を伝え続けたのです。イスラエルの出エジプトについて伝え続けたのです。シナイ山における主との契約について語り続けてきたのです。イスラエルに与えられた律法について語り続けてきたのです。メシアの到来について語り続けてきたのです。そのようにして、彼らは、強烈なアイデンティティを保持し続けた。イスラエルがイスラエルであり続けることなくして、私たちは今このようにして聖書を手にしていることはなかったでしょう。

 しかし、そのような聖書の中に今日読んだ「箴言」もある。それはある意味で不思議なことなのです。というのも、この「箴言」の中には、イスラエルの伝統という文脈から生まれてきたのではない、むしろイスラエル以外の国々において生まれた格言が少なからず導入されているものと思われるからです。

 例えば、箴言の中には「マサの王レムエルが母から受けた諭しの言葉」(311)なるものも含まれております。マサは歴代誌によりますとイシュマエルの子ですから(歴代誌上1:29)、アラビアの方の一部族であると考えられます。それゆえに、この部分をアラビアの格言集からの引用であると考える人もおります。また、「箴言」と古代エジプトの知恵文学である「アメン・エム・オペトの教え」との密接な関係も、今から90年も前から論じられてきたことです。

 実際、この「箴言」という書物には「イスラエル」という言葉は一つの例外を除いて全く出て来ないのです。その例外とは「イスラエルの王、ダビデの子、ソロモンの箴言」という表題です。それ以外には出て来ない。実際、箴言に含まれる格言には何もイスラエルに固有のことではないものが多く含まれているのです。人間なら誰でも「そうですよね」と言える言葉がたくさん書かれているのです。例えば、「明日のことを誇るな。一日のうちに何が生まれるか知らないのだから」(27:1)。このことについては、イスラエルの民であろうがなかろうが関係ないでしょう。

 そこで私たちは先ほどお読みした言葉を思い起こさなくてはならないのです。箴言において先ほど読まれた箇所で語っていた「知恵」は、天地創造に関わった「知恵」でした。その「知恵」が8章30節以下ではこんなことを言ってます。「御もとにあって、わたしは巧みな者となり、日々、主を楽しませる者となって、絶えず主の御前で楽を奏し、主の造られたこの地上の人々と共に楽を奏し、人の子らと共に楽しむ」(30‐31節)良く聴いてください。「知恵」は「主の造られたこの地上の人々と共に楽を奏し、人の子らと共に楽しむ」と言っているのです。

 そこにはイスラエルだけではなく「主の造られたこの地上の人々」全体が視野に入っているのです。それは「神の土地である世界」というのが直訳です。そこではまた「人の子ら」が視野に入っているのです。すべての人間です。神の知恵は、「人の子らと共に楽しむ」と書かれているのです。「人の子ら」ですから、そこでは当然のことながら、イスラエルと他の人々との違いよりも、むしろ人間として共通のことに目が向けられることになります。言い換えるならば、神に造られた人間としてイスラエルの民も諸国民も同じ地平に立つのです。

この世に置かれている教会として
 さて、先ほど「イスラエルがそのアイデンティティを保ち続けることは何よりも重要なことであった」と申しました。同じことは教会とキリスト者についても言えるでしょう。教会もまた、この世界において、様々な異なる宗教と文化を持つ人々との関わりの中に置かれております。この国において、いまだキリスト者は全人口の一パーセントに満たない少数者であり続けています。教会が置かれている地域の住民のほとんどはキリスト者ではありません。私たちが日常生活を共にし、仕事を共にしている人々は、ほとんどの場合キリスト者ではありません。そのような国に存在する教会として、教会がキリストの教会として、またキリスト者がキリスト者としてのアイデンティティを保ち続けることは極めて重要なことです。教会は教会としての意識を持ち続けねばなりません。キリスト者は自分がキリスト者であることを意識せねばなりません。

 しかし、そこでなお私たちは、この「知恵」の語りかけを聞かなくてはならないのです。私たちは、神が、イエス・キリストを遣わされた救いの神であると同時に、天地を創られた創造の神でもあると信じているのです。神がこの世界を造られた。そこで必然的に教会とキリスト者だけでなく、創造された人間と世界全体が視野に入ってくることになります。そこでは教会とこの世の違い、キリスト者と非キリスト者の違いよりも、むしろ共に主によって造られた人間として共通のことに目が向けられることになるのです。キリスト者はただこの世界に福音を伝える者として《向き合って》立つだけでなく、同じ人間としてこの世界の全ての人間と《並んで》創造の神の御前に立つのです。

 考えてみれば、それこそまたキリストが私たちのためにしてくださったことでもあるのです。ヨハネによる福音書の冒頭には次のように書かれています。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」(ヨハネ1:1‐3)。新約聖書において、先に読んだ「知恵」と同一視されているのは「言」、すなわち肉を取られ人間となられる以前から、神と共にあった《先在のキリスト》です。そのキリストが肉となってくださった。人間となってくださったのです。まず人間として、私たち全ての人間と同じ地平に並んで立ってくださったのです。

 そのように《並んで》立つということとの関連で思い起こされるのは、フィリピの信徒への手紙に書かれているパウロの言葉です。「終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や賞賛に値することがあれば、それを心に留めなさい」(フィリピ4:8)。

 ここで語られています「真実なこと」「気高いこと」「正しいこと」云々といった徳目は、何もキリスト教会やキリスト者に固有のものではありません。ギリシアの思想家もまた語っていたことなのです。ことに「徳」と訳されている《アレテー》という言葉は、もともと長所や優れている点を意味する言葉なのです。例えば、畑の土や良いことや、刀が良く切れることなどです。そのように個々の人間についてもアレテーということが考えられます。ともかく、パウロがここで教会の中のことを言っているのではなく、フィリピの教会が置かれている異教的な社会、キリスト者が生まれ育ってきた異教的環境を念頭に置いていることは明らかです。パウロはそこで、あなたがたが生きている異教的世界は迷信と偶像礼拝と不道徳だけの真っ黒な世界だとは言っていないのです。そこにアレテーを見出したら、良きものを見いだしたら、それを心に留めなさい、と言っているのです。

 先に申しましたように、私たちが日常生活を共にし、仕事を共にしている人々は、ほとんどの場合キリスト者ではありません。そこには未信者の夫、未信者の妻、未信者の同僚や友人たちが共にいます。そこでそれらの方々に対して、キリスト者として向き合うことは大事ですが、それと共に重要なことは、神に創造された者として、同じ人間として、共に並んで立つことであるかもしれません。そして、身近なそれらの方々の中に、パウロが言いますように、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や賞賛に値することを見出してそれを心に留めることだろうと思うのです。そのように同じ人間として共に立ってこそ、「人間」に与えられたキリストの救いの恵みもまた共有されていくことになるのです。それこそ、天地創造に関わられた神の知恵に耳を傾けて生きるということなのでしょう。

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