2016年9月18日日曜日

「理解を超えた神の道」

2016年9月18
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマの信徒への手紙 11章33節~36節

ああ、深きかな!
 「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう」(33節)。パウロが感嘆の声を上げています。このような手紙は口述筆記で書かれていますから、実際に大きな声で「ああ!」と叫んでいたに違いありません。それは何を思ってのことでしょう。それは神の富と知恵と知識の深さを思っての叫びでした。

 神の富。神の豊かさ。豊かな神。もちろん、パウロにとって神様は常に豊かな神であったに違いありません。神は創造主であって、すべてのものは神のものですから。また、パウロは神の「豊かな慈愛と寛容と忍耐(慈愛と寛容と忍耐の富)」(2:4)について語ります。また、パウロは神の「豊かな栄光(栄光の富)」(9:23)について語ります。そのように、パウロにとって神の豊かさはある意味では自明のことであって、ここで初めて気づいたわけでも考えたわけでもありません。

 神の知恵と知識についても同じことが言えます。「神の知恵」についても「神の知識」についても、既に旧約聖書において繰り返し語られていることです。パウロはこれまで耳にタコができるくらい聞いてきたことに違いないのです。パウロ自身、繰り返し神の知恵、神の知識について語っています。ここで初めて気づいたわけではありません。

 しかし、そのように神が豊かであることも、知恵ある御方であることも、果てしない知識をお持ちであることもパウロにとっては当然のことであり、分かりきっていることであるはずなのに、改めてここで感動の叫びを上げているのです。「ああ、ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか」と。いったい何が彼をしてそうさせているのでしょう。そう叫ぶパウロの眼差しの先には何があるのでしょう。

 この直前には次のように書かれています。「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです」(32節)。パウロが見ているのはすべての人に向けられた神の憐れみなのです。すべての人を憐れむために、神がしていることがある。言い換えるならば、すべての人を救おうとして、神がしていることがある。そのために神御自身がこの歴史のただ中に生きて働いておられる。パウロが目を向けているのはそのことなのです。

 そのように「すべての人を憐れむため」に、神はどうされたのでしょうか。「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められた」というのです。それが何を意味するのかについては、今日は触れません。9章から11章までをじっくりとお読みください。

 それが何を意味するにせよ、「すべての人を不従順の状態に閉じ込める」という言葉は「神の憐れみ」と直接結び着きますか。結び着かないでしょう。それはどう見ても、神の救いとは真逆のことに見えるではありませんか。

 しかし、人間の目には救いとは真逆に見えることが、実は「すべての人を憐れむためだった」とパウロは言うのです。そのことをパウロは知ったのです。そこでパウロは「ああ、深きかな!」と叫ばずにはいられなかったのです。「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか」と。

だれが神の道を理解し尽くせよう
 さて、二千年の時を経て、あの時のパウロの感動の叫びを文字として私たちは目にしています。また朗読として耳にしています。私たちはパウロが見ているものが同じように見えているのでしょうか。「ああ、深きかな!」という彼の叫びに、同じ感動をもって「アーメン!」と言えるでしょうか。もしかしたら、私たちにはおぼろげにしか見えていないかもしれません。あるいは彼が指さす方向に目を向けても、私たちには何も見えないかもしれません。

 しかし、少なくともパウロの言葉から私たちは一つのことを心に留めておく必要があるのでしょう。神はすべての人を憐れむために動いておられるということです。すべての人を救うために、その計り知れない豊かさを用いて、底知れない知恵を尽くして、その限りない知識を用いて、動いておられ、また、この世界を動かしておられるということです。しかも、人間の目から見たら憐れみとは真逆に見える出来事さえも用いて、すべての人を憐れもうとしていてくださるということです。

 実際、神が知恵を尽くし、知識を尽くして動いていてくださったからこそ、私たちが今ここにいるのでしょう。神がそのような神であるからこそ、憐れみを受けた者として、救いに招かれた者として、ここにいるのだと思うのです。私たちが憐れんでくださいと言う前に、私たちが救ってくださいと言う前に、限りなく豊かな神様が、知恵を尽くして、知識を尽くして、私たちを憐れむために動いていてくださったのです。そして、今もそのように憐れもうとしていてくださるのです。

 もちろん、その知恵も知識も私たちにとってはあまりにも深いのです。ですから、パウロはこう続けます。「だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう」(33節)。「究め尽くし」というのは「底まで計る」という意味です。あまりに深くて底まで届かない。ですから神様が何をどう判断しておられるのか分らないとしても、それは当然のことなのです。

 また神の道は理解し尽くせない。神には神の道があるのです。しかし、それは私たちの道とは異なるのです。かつて主は預言者を通して言われました。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている」(イザヤ55:8‐9)。

 だからこそ、神の富、神の知恵、神の知識に対する畏敬をもって神を信じるということが大切になってくるのでしょう。私たちには分からない。それはあまりにも深い。だからこそ信じるのです。神がすべての人を憐れもうとしていてくださることを、畏れをもって信じるのです。神の定めは極め尽くせないこと、神の道は理解し尽くせない。その上で、彼は神をたたえるのです。この章は最終的に「栄光が神に永遠にありますように、アーメン」という賛美の言葉にいたるのです。

ただ神を讃える者として
 しかし、現実の私たちの生活においては、往々にしてそのような神の知恵、神の父期への畏敬が失われているのでしょう。するとどうなりますか。私たちの方が知恵ある者であるかのように、私たちの方が知るべきことを知っている者であるかのように振る舞うようになってしまうのですそれゆえに、パウロがイザヤ書を引用して語る次の言葉は私たちの心に刺さります。「いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか」(34節)。

 「相談相手」とは「助言者」とも訳せます。そうです、私たちは神様に助言したくなるのです。「あなたのしていることはおかしい。あなたのしていることは間違っている。なぜこんなことをなさるのですか。あなたはこのようにすべきでしょう」と。何が最善であるかを私たちの方が知っているかのように。しかし、実際、知らないのは私たちの方なのです。「いったいだれが主の心を知っていたであろうか」。そう、私たちはすべての人を憐れもうとしておられる主の心を知ることなく、「助言者」として主に向かってしまうものです。

 あるいは、神の富、神の知恵、神の知識に対する畏敬を失った私たちは、助言ではなく取引を始めようとするかもしれません。私たちが何かを差し出すことによって、神から何かを引きだそうとするのです。私はこのようにしますから、神様はわたしが願っているとおりにしてください。そのようにして、神をコントロールしようとするのでしょう。

 しかし、聖書は言うのです。「だれがまず主に与えて、その報いを受けるであろうか」(35節)。実は、新共同訳では若干言葉が異なりますが、これはヨブ記41章3節の引用なのです。そして、この言葉は次のように続くのです。「天の下にあるすべてのものはわたしのものだ」。私たちが何かを主に差し出したとしても、それはもともと主のものなのです。「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです」。ならば、私たちは神と取引をする者としてではなく、ただ神をたたえる者として御前に立つべきなのでしょう。「栄光が神に永遠にありますように、アーメン」と。

 そうです。私たちは神に助言する者としてではなく、神に何か差し出して取引をする者としてでもなく、ただ神をたたえる者としてここに集められているのです。主の日に礼拝堂に身を置いているとはそういうことでしょう。私たちが何をするまでもなく、何かを差し出すまでもなく、既に圧倒的な神の憐れみのもとにあるのです。

 神は御子を通して御自身の憐れみを現してくださいました。その御方は、私たちを救うために独り子さえ惜しまず与えてくださった御方なのです。その神がその計り知れない豊かさを用いて、底知れない知恵を尽くして、その限りない知識を用いて、すべての人を救うために動いておられます。この世界を動かしておられます。人間の目から見たら憐れみとは真逆に見える出来事さえも用いて、すべての人を憐れもうとしていてくださるのです。その神の憐れみの中にある者として、パウロと共に感動の叫びを上げる者とならせていただきましょう。「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか」と。

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