2017年2月5日日曜日

「聞いているあなたがたは幸いだ」

2017年2月5
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 13章10節~17節

悟らせないために?
 弟子たちはイエス様に尋ねました。「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」(10節)。

 なぜたとえを用いるのか。普通は話をわかりやすくするためでしょう。しかし、イエス様がそのようにたとえ話を用いていたならば、このような弟子たちの質問は出てこなかったはずです。弟子たちが尋ねたのは明らかにイエス様の意図がわからなかったからでしょう。というのも、イエス様のたとえ話は決して分かりやすくはなかったからです。

 一つのたとえ話が今日の箇所の直前に出ています。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった」(3‐8節)。

 なるほど話としては誰にでも理解できます。難しい言葉は出て来ません。しかし、何を言わんとしているのかは、誰にでも理解できるという話ではありません。実際、他の福音書では弟子たちがイエス様に説明を求めています(マルコ4:10)。何を言わんとしているかが分からなかったからです。

 だからこそ、ここでも弟子たちは尋ねているのです。「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか。どうして分かりにくい話をなさるのですか。謎でしかないような話をするのはなぜですか」と。するとイエス様はこうお答えになりました。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである」(11節)。

 びっくりするようなイエス様の答えです。悟ることが許されていない人たちに天の国の秘密を悟られないためだと言うのです。どう思いますか。イエス様は全ての人に天の国のことを伝えたくて宣教しておられたのではないのでしょうか。全ての人が悟ることを望んでおられたのではないのでしょうか。

 いや、それどころかさらにイエス様はこんなことまで言われるのです。「持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」(12節)。分かる人はもっと分かるようになる。分からない人はますます分からなくなる。そういうことでしょう。どう思いますか。あまりにも意地の悪い答えに聞こえませんか。

見ても見ず、聞いても聞かず
 しかし、その続きを読みますと、イエス様がどうしてそう言われたのかが少しずつ見えてまいります。主はこう続けられました。「だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである」(13節)。

 イエス様がどのような人たちを念頭に置いて語っているのか、ここにはっきりと現れています。「見ても見ず、聞いても聞かず」という人たちです。イエス様が「彼ら」と言っているのは、そのような人たちのことなのです。では「見ても見ず、聞いても聞かず」とはどのような人たちを意味するのでしょう。

 イエス様はさらにイザヤ書を引用してこう言います。「イザヤの預言は、彼らによって実現した。『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない』」(14‐15節)。

 これはギリシア語訳旧約聖書からの引用なので若干言葉は違いますが、本日の第一朗読で読まれたイザヤ書6章からの引用です。それはイザヤが預言者として神に召され、立てられた時のことを伝えている箇所です。

 イザヤは「誰を遣わすべきか」という神の声を聞きました。そこでイザヤが応えます。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」。そこで神様は言うのです。「行け」。イザヤは神の言葉を人々に伝えに行くことになります。しかし、そこで神様は奇妙なことを言われるのです。行って人々にこう語れと言うのです。「あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない」。

 つまりこういうことです。神様はイザヤを人々のもとに遣わすのですが、もう初めから分かっているのです。そこには見ようとしない、聞こうとしない人々がいるのです。理解して悔い改めることもない人々がいるのです。イザヤがどんなに神の言葉を伝えても、受け入れようとしない人たちがいるのです。彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。イザヤはそのことを覚悟の上で、なお神の言葉を語らなくてはならないということなのです。

 そして、イエス様もまた、かつてのイザヤと同じところに立たされていることをご存じなのです。かつてイザヤが語った預言の言葉が、御自分の前でも実現しているのを見ておられるのです。「イザヤの預言は、彼らによって実現した」と。実際、イエス様の前にも「見ても見ず、聞いても聞かず」という人たちがいるのです。受け入れようとしない人たちがいるのです。だから「彼らにはたとえを用いて話すのだ」と主は言われるのです。

 実は、イエス様は最初から「たとえ」を用いて話していたわけではありません。イエス様がガリラヤにおいて宣教を開始された頃の様子は4章に記されています。その時のメッセージは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」(4:17)でした。実に明快なメッセージです。そこから始まりまして、この13章に至るまで、「たとえ話」はほとんど出てきません。イエス様は神の権威をもって伝えるべき内容をはっきりと語られたのです。

 いや、語られただけではありません。イエス様は見せてくださいました。イエス様のなさること全てが「天の国は近づいた」ということのしるしでした。かつて洗礼者ヨハネが捕らえられている牢獄から使いを遣わしてイエス様に尋ねさせたことがあります。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」。その時イエス様は答えて言われました。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである」(11:4‐6)。

 そのようにイエス様の言葉だけでなく、なさること全てが語っていたのです。天の国は近づいた、と。今こそ神に立ち帰るべき時である、と。

 しかし、そのような言葉と行いによるイエス様の宣教によって、次第に人々は二通りに分かれていきました。一方では、イエス様に従っていく人たちがおりました。しかし、もう一方においては、イエス様の言葉を批判的に聞いている人たち、さらにはあからさまに敵対する人たちもまた起こってきたのです。既に12章において「ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した」(12:14)という物騒な話が書かれていました。まさに「見ても見ず、聞いても聞かず」という人々です。

 だからこそイエス様はたとえを用いて語り始めたのです。「たとえ話」は、冷ややかに、批判的に、外から眺めるようにして聞いていても、何を言わんとしているのか、さっぱり分からないような話です。外に身を置く限り、種蒔きの話は農業の話でしかないのです。しかし、イエス様に従おうとして、この「わたし」に語りかける言葉として、その中に身を置いて聞く時に、見えてくることがある、聞こえてくることがある――それがたとえ話しというものです。その中に身を置かなかったら分からない。だからイエス様に対するあり方によって、悟る者と悟らない者に分かれていくのです。イエス様は、それを意図して語っておられるのです。

 それは最終的には、たとえ話だけでなく、イエス様という御方そのものが、そのような存在だからでしょう。冷ややかに、批判的に、外から眺めるようにして見ていても、イエス様という御方はわからない。しかし、その御方の弟子として耳を傾け従い始める時に、聞こえるべきことが聞こえてくる。見えるべきものが見えてくるのです。その時には、もはやイエス様にとって「あの人たち(彼ら)」ではなく、「あなたがた」になっているのです。

あなたがた、幸いな者たちよ!
 そうです、私たちがイエス様にとって「あの人たち」ではなく、「あなたがた」になるならば、弟子たちに語られた16節以下もまた私たちについての言葉となるのです。「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである」(16‐17節)。

 イエス様を救い主として見ることができる。イエス様の言葉を神の言葉として聞くことができる。そのような者として、イエス様から「あなたがたは」と呼ばれる者として生きることができる。それがどれほど幸いなことかを本当の意味で知っているのはイエス様だけなのでしょう。イエス様の言葉は、原文においては「あなたがた、幸いな者たちよ!」という言葉から始まるのです。溢れる感動をもってイエス様は語っておられるのです。

 この言葉を代々のキリスト者たちは、迫害の中にあろうが、いかなる困難の中にあろうが、殉教を目の前にしようが、聞き続けてきたのです。「あなたがた、幸いな者たちよ!」と言われるイエス様の言葉を。なぜ幸いなのか。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているのだ」と主は言われます。なぜ幸いなのか。私たちが見ていること、聞いていることは、「天の国」に関わることだからです。永遠の命に関わることだからです。永遠の救いに関わることだからです。過ぎゆくことのない、朽ちてしまうこともないからです。それこそ死んでもそれで終わりではない、神の完全な救いに関わることだからです。

 それを拒絶することはどれほど不幸なことか。信じ従う者として見て、聞いていることがどれほど幸いなことか。本当の意味で知っているのはイエス様です。その御方が今日も私たちに語っておられます。「あなたがた、幸いな者たちよ!」「あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ」と。そうです、幸いな私たちがここにいます。幸いな者としてここから再び出て行くのです。

以前の記事