2017年9月3日日曜日

「ソロモンの知恵」

2017年9月3
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 列王記上 3章4節~15節

 本日の第一朗読ではダビデの子ソロモン王の物語が読まれました。この書の2章を読みますと、ソロモンが即位して既に3年が経過していることが分かります。また今日の箇所の直前には、「当時はまだ主の御名のために神殿が建てられていなかったので、民は聖なる高台でいけにえをささげていた」(2節)と書かれていました。ソロモン王が神殿の建築に着手したのは、即位して4年目の第二の月のことですから(6:1)、今日お読みしたのは、神殿の建築が始まる直前の出来事であることが分かります。

主を愛するソロモン
 今日の聖書箇所は次のような言葉から始まっていました。「王はいけにえをささげるためにギブオンへ行った。そこに重要な聖なる高台があったからである。ソロモンはその祭壇に一千頭もの焼き尽くす献げ物をささげた」(4節)。「聖なる高台」とは、先に引用した2節にありましたように、神殿が建設される前に祭儀が行われていた地方聖所のことです。それは歴史を遡るならば、イスラエルがカナンの地に定住する以前、カナンの神々に犠牲がささげられていた場所です。

 カナンの神々はバアルと呼ばれていました。「主人」という意味です。各地の聖なる高台ではその地域ごとのバアルに礼拝がささげられてきました。そこで行われてきたのは、今日の日本においても見ることができるような、豊穣多産を願っての祭儀でした。人々は繁栄を願って犠牲をささげました。富と栄光を願って、戦いがあるならば勝利を願って、犠牲をささげました。聖なる高台とは、もともとそのような場所でした。

 そのような繁栄を願っていけにえをささげる習慣は、イスラエルの定住後も根強く残ることになりました。それどころか、エルサレムに神殿が建造されて後にも、延々と残ることになりました。それは列王記を読むと良く分かります。人々は豊作を願い、家畜が殖えることを願う礼拝を続けたのです。富と栄光を求めての礼拝を続けたのです。御利益を求めての犠牲をささげ続けたのです。

 今日の聖書箇所に出て来る「聖なる高台」とはそのような場所です。そのような数ある聖なる高台の中でも、特に重要な聖なる高台があるギブオンにソロモンが行って犠牲をささげたというのが今日の話です。「ソロモンはその祭壇に一千頭もの焼き尽くす献げ物をささげた」(4節)と書かれていました。「一千頭」というのは極端です。これは文字通りの意味ではなく、「非常に多くの」という意味でしょう。ともかくソロモンは多くの犠牲を祭壇にささげました。

 豊穣多産を願い、御利益を願っての礼拝であるならば、そこで犠牲をささげるのは願っているものを与えてもらうためでしょう。その意味では、神々との取り引きであると言うことができます。得るものがあるからこそ献げるのです。バアル(主人)とは呼んでいますが、彼らが愛しているのは主人ではなく、結果として得られる繁栄です。

 ソロモンもまた聖なる高台で莫大な量の犠牲をささげました。外から見れば、豊穣多産を願っての祭儀と変わらないかもしれません。しかし、実はギブオンに上った今日の話の直前にこう書かれているのです。「ソロモンは主を愛し、父ダビデの授けた掟に従って歩んだが、彼も聖なる高台でいけにえをささげ、香をたいていた」(3節)。それは主を愛する者の礼拝であり、献げ物だったのです。

 そのことが明らかに示されているのが、続くエピソードです。「その夜、主はギブオンでソロモンの夢枕に立ち、『何事でも願うがよい。あなたに与えよう』と言われた」(5節)。そこでソロモンは知恵を求めたという有名な話です。

ソロモンの願い
 「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」。そのように主なる神は「与えてくださる方」として御自身を表されました。確かに聖書が私たちに伝えている神様はそのような御方です。聖書は、人間が願い求め、神が与えてくださった、という話に満ちています。

 それゆえに、イエス・キリストも言っておられました。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」(マタイ7:7‐8)。さらには「あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」(同11節)とまで言われたのです。

 神は与えてくださる御方です。しかし、だからこそ、その御前で何を願うかが大事になってくるのでしょう。いったい神に何を願うのか。いや、個々の願いというよりも、そもそも神の御前においてどのような願いを持って生きるのか、ということです。与えてくださる神の御前に生きているからこそ、私たちの生き方そのものが問われるのでしょう。

 「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と言われたソロモンは答えました。

 「あなたの僕、わたしの父ダビデは忠実に、憐れみ深く正しい心をもって御前を歩んだので、あなたは父に豊かな慈しみをお示しになりました。またあなたはその豊かな慈しみを絶やすことなくお示しになって、今日、その王座につく子を父に与えられました。わが神、主よ、あなたは父ダビデに代わる王として、この僕をお立てになりました。しかし、わたしは取るに足らない若者で、どのようにふるまうべきかを知りません。僕はあなたのお選びになった民の中にいますが、その民は多く、数えることも調べることもできないほどです。どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください。そうでなければ、この数多いあなたの民を裁くことが、誰にできましょう」(6‐9節)。

 ソロモンの答えに繰り返されている言葉があります。「僕」という言葉です。日本語訳では分かりにくいのですが、実はすべて「あなたの僕」と書かれているのです。ソロモンの父、先代の王ダビデがまず「あなたの僕、わたしの父ダビデ」と呼ばれています。ダビデ王は、忠実に、憐れみ深く正しい心をもって、主の僕として歩んだ。そのような王座をソロモンは引き継いだのです。それがソロモンの自覚でした。「わが神、主よ、あなたは父ダビデに代わる王として、この僕(あなたの僕)をお立てになりました」と。

 そしてもう一つ繰り返されている言葉があります。「あなたの民」という言葉です。「僕はあなたのお選びになった民の中にいますが」(8節)とありますが、これも原文では「僕はあなたのお選びになったあなたの民の中にいますが」と書かれているのです。ソロモン王にとって国民は「あなたの民」なのです。「わたしの民」ではないのです。つまりソロモンが王であるということは、主の民を託されたのであって、ソロモンは僕としてその務めに携わっているのです。

 ソロモンの願いはそのような文脈で理解する必要があります。「どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください」。何のためですか。主の僕として生きるためです。主により良くお仕えするためです。主の僕として、主から託されたことを全うするためです。「そうでなければ、この数多いあなたの民を裁くことが、誰にできましょう」。そう言ってソロモンは求めたのです。

 それは夢の中での出来事でした。しかし、夢の中でそのように答えたということは、それが常日頃の願いであったことを意味するのでしょう。主により良くお仕えするためには何が必要なのだろう。主から託された務めを果たすためには、わたしに何が必要なのだろう。そのことをソロモンは常に考え続けてきたのでしょう。あるいは、「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と主から言われる以前から、それは彼の絶えざる祈りでもあったのかもしれません。

神の応え
 このソロモンの願いを主は喜ばれ、こう言われました。

 「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。見よ、わたしはあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える。あなたの先にも後にもあなたに並ぶ者はいない。わたしはまた、あなたの求めなかったもの、富と栄光も与える。生涯にわたってあなたと肩を並べうる王は一人もいない。もしあなたが父ダビデの歩んだように、わたしの掟と戒めを守って、わたしの道を歩むなら、あなたに長寿をも恵もう」(11‐14節)。

 ソロモンが献げた犠牲は、かつて同じ聖なる高台で富と栄光を求めてバアルの神にささげられたものと同じではありませんでした。ギブオンにおいてソロモンが夥しい焼き尽くす献げ物をささげた時、彼が願い求めていたのは長寿でも富でも敵の命でもなかったのです。繰り返しますが、王であるソロモンが願い求めていたのは主の僕として主に仕えて生きることだったのです。主の僕として主から託された務めを全うすることだったのです。ソロモンの献げ物、それは主を愛する者の献げ物でした。ソロモンが捧げたのは主を愛する者の礼拝でした。

 かくしてソロモンは願い求めたとおり「知恵に満ちた賢明な心」を与えると約束されました。さらには、願い求めなかったもの、富と栄光をも与えると約束されました。そして物語は、主が約束されたとおりに豊かにソロモンに与えられたことを伝えています。

 もちろん聖書はいかなる意味においても人間を理想化しないのであって、このソロモンもまた老境に入った時に主の道から外れてしまったことを正直に伝えております。しかし、それにもかかわらず、その物語の大きな部分は、主がいかに豊かにソロモンを恵まれたかを伝えることに割かれているのです。主は豊かに与えてくださる神です。

 そして、その御方は私たちの神、私たちの天の父でもあります。かつて夢の中において「何事でも願うがよい」と言われた神は、ここにいる私たちには、夢によってではなく、イエス・キリストを通して、また使徒たちを通して、願いなさい、求めなさい、祈りなさいと言ってくださいました。だからこそその御方の御前で何を願うかが大事になってくるのでしょう。何を願って生きるかが大事になってくるのでしょう。その神の御前において、私たちはいかなる願いを持って生きているのでしょうか。

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